1. 私は、ドイツとの紛争の過程でイタリアがドイツの主権免除を侵害したという判決主文(判決第139項(1))には賛同するが、裁判所が採用したアプローチや理由の論理を支持することはできない。
2. 周知のように、グローバリゼーションの潮流の中での友好関係という最新動向にも関わらず、主権免除の原則の射程距離についての国家の見解は対立し、さらに対立を深めている。
3. かつては主権国家の絶対性に基づき、いかなる国家もあらゆる状況において他国に対して裁判からの免除を要求することができる絶対免除主義が妥当であると考えられた。
4. しかし、多くの国家は、国際的な行為主体の多様化や国際法の発展によってもたらされた主権概念の顕著な変化に適応して主権免除に対する立場を相対化させた。それは、要するに主権免除から私的・商業的行為(業務管理行為)を除外し、主権行為のみに制限するものであった。しかし、その二つの類型の区別は常に容易とはいえない。また、国内法に関しては、裁判所が指摘するように(同71項)数が少なく、内容も一貫していない。各国の判例についても同様である。それらは主権免除の法が全ての種類の物を含んだ旗印に過ぎないという印象を与える。
5. 実際に、各国は、主権免除を規制する国際法に関わらず、自国の国内裁判所が外国の特定の行為を裁くことを許容する法律を制定した。例えば米国は、米国政府により「テロ支援国」に指定された外国に対する損害賠償民事訴訟を国内裁判所が遂行できるように、1996年に国内法(米国外国主権免除法(1976)1605A)を改正した。その結果、法学者らは、主権免除の慣習法に照らし、この分野における国家の立法権の限界について疑問を提起することになった。
6. 1972年の欧州主権免除条約(第11条)と2004年の国連主権免除条約(第12条)が主権行為と業務管理行為を区別しない「不法行為例外」を導入したことにより状況は更に複雑化した。この原則は問題の行為の目的を問うことなく法廷地国内の人と財物の損害をカバーしようとするものだった。
7. その上、今日では主権の行使と国家責任は分かちがたく結びついている。国家は保護義務を負う自国民に対してのみならず、その領域外で他国の国民を傷つける行為についても責任を負う。
8. 主権行使と責任が不可分であるということは、国家は責任を負うことを条件に、外国の裁判所において主権平等の原則にもとづいて主権免除の要求を正当化できるということでもある。言い換えると、それらの裁判所における免除の享受は、関係国の責任からの解放を意味しない。それはその責任についての審理を他の外交手段または司法機関に委ねるものに過ぎない。主権平等は国際的な合法性の尊重に関する平等を伴ってこそ意味がある。
9. 本件紛争のように国際犯罪との関係で提起された場合には、主権免除の問題は、それが単なる手続問題であると指摘することだけでは免れることができない根源的な倫理的・法律的な問題を国際社会全体に引き起こすことが強調されねばならない。
10. その上、裁判所も注目するように、ドイツは「特に虐殺に際し、又は元イタリア軍人収容者に関して、イタリアの男女に与えた筆舌に尽くし難い苦痛」と、責任を負うべき不法行為があったことを認めた(判決52項)。しかし、裁判所は「ドイツが当時承認を拒否した地位を有していたことを理由に、ある種の被害者らへの補償を拒否するとは、驚くべきことであり、遺憾であると考える。」という見解を示すにとどまった(同99項)。
11. 私見によれば、原則に関する問題としても、本件の結論に関しても、裁判所はこの問題をそこに放置したままにしてはならなかった。まず、原則については、裁判所はすでに「主権免除を理由に、その国家の機関に対する司法手続を進行させるべきでないと外国裁判所に通知した国家は、その機関が実行したすべての問題の国際違法行為の責任を負う」と明確に述べた (2008年6月4日 刑事司法共助に関する特定問題事件(ジブチ対フランス)判決)。本件では、ドイツはその機関が実行し、国家に帰せられる犯罪行為について、国家として主権免除を援用した。したがってそれらの行為の責任を負わなければならない。
12. 万国国際法学会が2009年ナポリ会議で採択した「国際犯罪事件において国家及び国家を代表して活動する個人の主権免除」に関する決議は、主権免除は国際法規則を回避するものではなく、各国の司法権の実行に際して裁判所が主権平等を考慮することを可能にしたものであると表現した「諸原則」と題する条項(第2条)を含んでいる。
「主権免除は管轄権の適切な配分と実行を保証するために、関係国の司法手続において、主権平等の尊重と国家を代表して活動する個人の機能の効率化のため、国際法に基づいて与えられる。」
13. 本件では、ルイジ・フェッリーニ氏を含む元イタリア軍人収容者をはじめとする、問題となっている類型の被害者に対する行為の違法性を認めているドイツは、原則としてそれらの行為の責任を負わねばならず、ただ法廷地の国内裁判所で免除を享受すべき状況にあるに過ぎないと、裁判所は述べるべきであった。14. その上、責任の原則から導かれる結論について裁判所は次のように述べる。
「イタリアにおける手続の根拠となった、…イタリア軍人収容者とその他の未補償を訴えるイタリア国民の請求は、この問題の解決の見地から行われる今後の2国間交渉の主題となるであろう」(判決第104項)。
私見によれば、これを単に交渉の主題となる可能性があると見るのではなく、ドイツはその国際責任を負い、第2次大戦以来ドイツが採用している基準について、そこから除外されている類型の被害者を含めるための補正についてイタリアと協議すべきである。15. したがって、国家が法廷地国の裁判所における主権免除の利益を喪失するのは、違法行為の立案者と推定される国家がいかなる形態における責任も拒否するという、例外的な状況においてのみである。問題の国家が自身が依拠していた法の根源的な原則に従うことを拒否する場合には、自国において裁判を受ける個人の権利が優先される。
16. 私見によれば、そのような例外的な状況を国内・国際の裁判所が見逃すはずはない。仮に見逃すことがあれば、国際法秩序の根源を掘り崩す可能性のある悪用に道を開くことになりかねない。
17. ロザリン・ヒギンズの次の言葉のように、裁判官は常に法と正義に究極的な優先権が与えられるよう細心の注意を払わなければならない。
「管轄権に関する通常の規則の例外(主権免除)は国際法が求める場合、すなわちそれが正義及び当事者間の公平な防御と調和する場合にのみ認められるべきである。そ れは『権利として』与えられるのではない。」 (「主権免除の法の未解決の側面」 1982)
18. 国際司法裁判所は、国家の主権と、そのような主権の中で機能する正義と公平に同等の比重を置こうとする、この数十年の主権免除を統制する法制度の発展を可能にしたアプローチに追随すべきであった。主権に対するウェストファリア概念は薄れ、個人が国際法制度の中心的位置を徐々に占めつつある。19. その発展の一部は国際法委員会の成文化作業と国連主権免除条約(2004年12月2日国連総会決議59/38で採択)を反映したものであった。しかし、その発展はすでに終わってしまったわけではない。それが、裁判所が提起された事件を審理するにあたって議論された概念と規範を再評価し、必要であれば解釈に関して新しく出現した傾向とその射程について指摘する理由である。
20. 裁判所は主権免除の享受は国家責任に影響を与えないと明確に認めたが(判決第100項)、そこから明確な結論を導き出すことができなかった。例えば裁判所は、その責任を完全に否定する国家は主権免除を求める権利を失うと付言することができたはずである。
21. 主権免除の要求には義務が伴う。すなわち、国家は適切な方法で国際責任を果たさなければならない。そして、武力紛争に関しては、そのような方法に国家間交渉が含まれると私は考えるが、その交渉は問題の全ての状況をカバーすることを条件に運営されなければならない。
22. 本件は一定の特別な外見により特徴づけられている。ドイツは問題の不法行為の責任をイタリア裁判所で認めた。そしてそれらの行為の全部または一部がイタリア領内で行われた。しかしドイツは主権免除を要求し、それに関する義務にイタリアが違反したとして当裁判所に提訴した。また、本件に関係する個人被害者は様々な訴訟を提起し、敗訴した。
23. しかし、それらの個人はドイツ裁判所と欧州人権裁判所で勝訴することは不可能だったとか、もはやドイツには彼らに対する補償義務が存在しないと判断することはできない。そのような義務はドイツが認めた国際違法行為の結果であり、国家間交渉により解決できるはずである。したがって、これは両国間の未解決の問題である。
24. この種の違反に関するすべての紛争の処理について、主権免除を否定すべき例外状況と みなすべきであるという要求は全く現実的でない。それは全ての武力紛争の被害者個人による補償請求訴訟というパンドラの箱を開ける可能性がある。
25. 仮にドイツがそのような解決への道を閉ざし、それが開く気配もない場合には、同種の違法行為について外国裁判所における主権免除の否定という問題が再び正当に提起されうると私は考えている。このように、裁判所は、イタリアがドイツの主権免除を尊重する義務に違反したと判断するにあたり、いかなる意味においても、国際法の他の根本規範、すなわち国際違法行為に対する国家責任の履行を妨げようという意図はなかった。
26. したがって私は、第2次世界大戦にさかのぼる問題であること、その紛争の終了以来ドイツによりなされた努力、それについて国際責任を果たそうという意思に照らし、先に言及した主権免除否定を許容すべき例外的な状況に現在のところ至っていないと思える本件の性質を根拠に、判決の主文に賛成票を投じた。
27. 裁判所は判決第103項で行ったように、国家実行や学説による支持がないという口実によって、いわゆる「最後の手段」の主張を却下することはできない。実際、「付託される紛争を国際法に従って裁判することを任務」(裁判所規程第38条)とする裁判所は, その法的状況の中でその問題についての規範を解釈・適用しなければならない。言い換えれば、当事者を拘束する他の法規則を考慮に入れなければならない。結論的には、特に国内裁判所の予備審査において不法行為による国家責任への補償請求の道が閉ざされていると思われる場合に、国家責任を統制する法の効果を考慮せずに主権免除の法をどのように解釈・適用するのか、理解困難である。
28. それらの全ての要素と、その相互補足的性質を考慮に入れることにより、裁判所は国際司法のための国際法の統一的解釈を達成することができる。この統一的解釈という根本的な機能が、裁判を求める国際犯罪被害者を考慮せず、狭義の主権免除を孤立して考察するような狭く形式的なアプローチに制限されることはありえない。ヴォーン・ローが提唱した「接合規範」が主権免除の法と国家責任の法の連結の確立を可能にすると考えることもできる。これは裁判所がコルフ海峡事件(英国対アルバニア)本案判決において、人権と国際人道法の接点として「人道の基本的考慮」に言及したように、法の一般原則に依拠することによって行われるかも知れない。
29. 裁判所は司法業務の「技術的」概念に依拠し、国内裁判所は主権免除について、「各事件の特有の事情を考慮せず」予備的問題として決定するという(判決第106項)。しかし、これは誤解である。実際には主権免除の問題や主権免除の否定を要求する原告の主張について決定するために事件の本案について審理しなければならないことは珍しくない。例え ば、当裁判所が管轄権に対する異議は「専ら予備的性質」を持つものではないと判断するためには、係属する事件の本案について審理しなければならないのである。
30. 更に、イタリアはその国民に代わって外交保護権を行使することにより、国民の主張を支持し続ける可能性があることも忘れてはならない。当裁判所がアマドゥ・サディオ・ディアロ事件(ギニア共和国対コンゴ民主共和国)先決的抗弁判決 (2007)で認めたように、この制度は国際的な人権保障の最後の手段を意味する。
31. 最後に、私は当裁判所の理由づけが、管轄権の配分方法の要素である主権免除は、それが究極的には被害者による裁判の要求に対する障害物となる場合には正当化されないという、現代国際法の議論に基礎をおいていないことを遺憾に思う。すなわち、厳密に言えば、主権免除は国家に生来する主観的権利ではなく、各事件の性質が許す場合には外国の裁判を受けずにすむという可能性に過ぎない。
32. 裁判所が判決(第106項)で示唆したのとは異なり、国内裁判所は主権免除に関する法を解釈適用する完全な権限を有している。その権限が予備審査において行使される場合、当該事件の状況が外国の主権免除の享受を許容するか否かの判断に必要であれば、国内裁判所が当該事件の全ての事実について審理することは妨げられない。
33. 残った問題は、虐殺や人道に対する罪のような国際犯罪の実行の上に立てられた組織的な国家政策にも主権行為の名のもとに主権免除が及ぶのかという問題である。この問題は他の問題を引き起こす。すなわち、通常の国家作用と国際犯罪に分類される作用を区別し、それを主権免除享受から排除する権限を誰か有するのかと言う問題である。一方で、本件のように、犯罪行為が国家によるものであることが確定し認められている場合、国家はいずれかの時点で、最終的に外国の裁判所で裁かれることを回避するために、補償のための適切な回路を開くことが求められることになる。
34. 本件は、ある国家に対する主権免除制度は、その国家が自らの国際法違反を自認することと密接な関連があることを明白に証明している。慣習国際法の分析の中で、この趨勢に注目し、その国際法形成への影響を予想することは、当裁判所に与えられた義務である。この趨勢を反映した国内裁判所の判断が余り存在しないことは裁判所がこの趨勢を無視すべきであることを意味しない。
35. 刑事、民事を問わず、確立した秀逸な司法機関と国際レベルでの法の支配は、国家の名の下に活動する指導者たちによる国際犯罪とその防止に関する法の絶対的な規範への侵害を抑止することに貢献している。そのような抑止機能が国家とその代表者らに対する主権 免除についての後ろ向きのアプローチによって傷つけられることのないよう、注意を払うべきである。
(署名)モハメッド・ベヌーナ