本件の重要問題はイタリア裁判所がドイツの主権免除を侵害したかである — イタリア裁判所は、他に救済手段が存在しない、人道法に対する深刻な違反に対する補償請求についてドイツの主権免除を否定した — 多数意見はこの核心争点に対して適切に検討することができなかった — 多数意見はその代わりに武力紛争時に軍隊によって行われた主権行為に対する主権免除の範囲及び強行規範の効力に焦点を当てた — 多数意見の分析は他に救済方法のないナチス蛮行被害者の現実の生活状況に適切に取り組んだものとはいえない — 主権免除は他の救済手段が利用できない場合に障壁として利用されてはならない — イタリア国内裁判所における被害者らの提訴は補償を受けるための最後の手段であった — 主権免除は国際法において不変の価値ではない — 国際法の体系が国家中心モデルから個人の権利をも保護するモデルに移行したことを反映して、主権免除の射程は前世紀を通じて狭められてきた — それは、スイスチーズのように穴だらけである — 主権免除の国家実行はその範囲と射程について事件ごとに大きな相違点がある — 慣習法の不確実性は多様な司法判断に対する形式的な調査によっては解決されない — 慣習国際法は相対多数の問題ではない — 各事件の事情や性格、その背景事実が検討されなければならない — 人権と人道法の基礎となる一般原則も解釈の手段とされるべきである — 主権免除の機能と基本的な人権と人道法の現実化の均衡も衡量すべきである — 慣習法が不完全で不安定な場合には主権免除を認める事についての公平性と適法性を検討すべきである — 主権免除の法の発展はしばしば国内裁判所の孤立した判決から始まり、徐々に主流となる — 国内裁判所による管轄権の主張は主権免除に対する新しい例外を現実化する — 国内裁判所は、全ての国際人道法又は人権の侵害に対する補償請求について主権免除を否定できるわけではない — 他に救済手段が存在しないという例外的な事情の下で主権免除の不当な適用を排除して管轄権を主張することは、国際人道法のより厳格な遵守に貢献するものである。
1. 私は遺憾ながら裁判所多数意見の「イタリア共和国はドイツの1943年から1945年にかけての国際人道法違反についてイタリアで提訴された民事請求を許容することによりドイツ連邦共和国が国際法上享受する免除を尊重する義務に違反した」という認定に同意できない。
2. 私はこの認定を導いた論理と理由づけにも反対する。
3. 私の反対は、特に本件において扱われた両当事者間の紛争の核心争点に対する不十分な方法に関するものである。それは本件紛争における主権免除否定と密接に関連する国際人道法違反に対する補償義務についての充分な検討の欠如、国際法における主権免除の射程と範囲及びその制限についての多数意見の理由づけと結論、そしてとくに主権免除の分野における慣習国際法の発見と発展に関する国内裁判所の役割について多数意見によって採用されたアプローチである。 私はこれらの点についての意見を以下に述べる。
5. イタリア裁判所に提起された請求は特定の類型に属する被害者によるものである。彼らはドイツが補償を懈怠し、被害補償のための他の手段からも排除していると訴えている(これらの類型の内容については判決第52項参照)。したがって裁判所は他の救済手段が存在しない状況下におけるナチス犯罪被害者の補償・賠償請求についてイタリア裁判所がドイツに主権免除の付与を拒否したことが国際的違法行為を構成するかという問題について判断しなければならなかった。多数意見はこれに対し違法行為を構成すると答え、私はそれに反対である。そして多数意見がこの結論を導くために採用したアプローチにも同意できない。
6. 多数意見はドイツも認めている第三帝国の違法な取扱の特定類型の被害者に対するドイツの補償懈怠がイタリア裁判所におけるドイツの免除の存否や範囲について法的な効果を及ぼす可能性があるのか、その結果本件の特定の状況下でドイツの免除を否定したイタリア裁判所が法的に正当化されるのかを判断する管轄権を有していることを認めた(判決第50項)。それにもかかわらず多数意見は本案についての考察の過程において検討の対象をほとんど完全に「武力紛争の遂行過程における国家の軍隊の行為に免除が適用されるか」という問題に限定した(同第61項)。
7. 私見によれば、この核心的争点の設定は他の救済手段の不存在のためイタリア裁判所に請求せざるをえなかったナチス蛮行被害者らの現実の生活状況に比べ、余りにも抽象的・形式的である。裁判所に提起された紛争は武力紛争下における国家の軍隊の違法行 為に対する一般的な免除適用可能性ではない。これは学術論文や学者の議論に委ねるべき非常に広範な主題である。本件の紛争は、第三帝国により行われドイツも認めた犯罪に対する実効的な補償を得られなかった特定の類型のイタリア人被害者らに補償請求の代替手段を提供するためにドイツの主権免除を否定したイタリア裁判所の決定についてである。
8. イタリアは書面においても(イタリア答弁書 87-122頁、イタリア再抗弁書 11-26頁)、口頭手続においても(CR 2011/18 第11項、CR 2011/21 第4-12項、 CR 2011/21 17頁第1-37項)、この点を繰り返し強調した。ドイツもそれに対して多くの反論をした(CR 2011/17 14-42項、CR 2011/20 30頁 11-36項)。したがって裁判所はこの点に適切に焦点を合わせるべきであった。
9. 残念ながら多数意見の前記のアプローチの結果、補償の懈怠とイタリア裁判所による免除の否定による補償のための代替手段の提供との関係の本件紛争における重要性は判決において完全に無視されるか、事実上看過された。唯一の例外は特定の類型の犠牲者らに補償が欠けていることについてイタリアが提起した「最後の手段」の主張を扱った短い部分(判決第98〜104項)である。
10. その部分で多数意見は「ドイツは当時戦争捕虜の地位の承認を拒否し、戦争捕虜として保証される法的保護を否定したにも関わらず、被害者らがその地位を有していたことを理由に一つのグループの被害者らに対する補償を否定することを決定した」(同第99項)と留意した。しかしながら、この補償の懈怠と他の救済手段の不存在が国際法上法廷地国の裁判所においてドイツに主権免除を付与するか否かの判断に対して及ぼし得る影響力を検討する代わりに、多数意見は「裁判所は、ドイツが補償を否定したことは…驚くべきことであり…遺憾であると考える」(同)と述べるに留めた。これについては、国家間の紛争は国際的な裁定機関、中でも国連の主要な司法機関に驚きや遺憾を表明してもらうためではなく、国際法に基づく適切な解決のために持ち込まれたことを想起すべきである。
11. 一方で私は「裁判所は国際法によるドイツの裁判権からの免除が、関係するイタリア国民に対する法的補償を不可能にするかも知れないということを認識しなかった訳ではない」(判決第104項)という多数意見の記述に同意する。しかし私見によれば、裁判所はこの記述からイタリア裁判所の決定の適法又は違法について何らかの法的結論を引き出すべきであった。その代わりに多数意見はイタリア軍人収容者及びその他のイタリア国民の請求が「この問題の解決の見地から行われる今後の二国間交渉の主題となるであろう」(同)と陳述を続け、裁定を求めて持ち込まれた紛争の核心的争点の一部について裁判所自身による法的決定よりも外交的アプローチ を提唱するのである。
12. 第三帝国による国際人道法違反についての賠償の懈怠とイタリア裁判所による主権免除拒否との直接的な関係について、多数意見が両者の緊密な関係を認識していたにもかかわらず、一般論としてさえ賠償責任の義務について検討する必要性を顧みなかったことも遺憾である。
13. 1907年ハーグ第4条約第3条は人道法違反の結果として発生した損害に対する賠償義務を下記のとおり規定している。
「前記規則の条項に違反した紛争当事者は、必要な場合には、賠償を行う責任を負う。紛争当事者は、自国の軍隊に属する者が行ったすべての行為について責任を負う。」
14. 同様の条項は1949年ジュネーヴ諸条約第1追加議定書(1977)(以下「第1追加議定書」という)第91条にも見出すことができる。これらの条項は賠償の対象が個人であるか国家であるかについて明示していない。しかし、それらは人道法違反に対する賠償・補償の国際法上の義務の存在を明確に認めているということができる。15. 人道法違反の結果として発生した損害に対する賠償を個人の原告が請求するようになったのは、せいぜい最近の約20年間である。そのような例には奴隷労働者、慰安婦、拷問被害者を含む第2次世界大戦中の国際人道法違反の被害者らが1990年代に日本の裁判所に提起した訴訟、すでにドイツによって解決されたが、ドイツに対するホロコースト賠償運動が「労働奴隷」のために米国裁判所に提起した訴訟、ナチスの軍隊による虐殺事件の被害者親族らがドイツに賠償を請求して1995年にギリシャ裁判所に提訴したディストモ事件訴訟、1944年8月に逮捕されてドイツに連行・抑留され戦争が終わるまで軍需工場で労働を強制されたイタリア国民ルイジ・フェッリーニ氏がドイツに対してイタリア裁判所に提訴した訴訟が含まれている。
16. 歴史的にはそのような違反に対する賠償は長年にわたって国家間レベルの平和条約や和解協定によって処理されてきたことは疑いない。最近では国連安保理事会により設立されたイラク補償委員会や二国間合意により設立されたエリトリア・エチオピア請求権委員会のような、これとは異なる仕組みも利用されている。しかし、これは個人がそのような仕組みにおける最終的な受益者となることを過去も現在も予定していないということや、個人が賠償を請求する権利を有しないということを意味するものではない。それは、違反の被害者らに分配するために被害者の国籍国が合計金額を受け取ることを意味するにす ぎない。そのような協定は、無数の民事訴訟提起の回避、平和条約締結の遅延、旧交戦国の関係正常化など、政治的又は実際的理由のために用いられてきた。
17. ここで問題となるのは国家責任である。犯罪が武力紛争時に国家の官憲によって犯された場合、その国は官憲の違法行為の責任を負い、被害者に対して補償しなければならない。そのような補償は多くの場合国家間の仕組みや違反に責任を負う国家による特別の基金を通じて行われる。しかし、国家責任の法は国家による違法行為の結果として個人に権利が生じる可能性を排除していない。実際、国際法委員会による国家責任条文草案第33条2項は次の通り規定している。
「この部は、国家以外のいかなる個人又は構成体に対して、直接的に権利を付与することを意図した国家の国際責任から生じるいかなる権利にも影響を与えない。」
18. その上、国際法委員会の注釈は国家責任に関する国際法規則により個人が権利の保有者になる場合があると明確に述べている。私見によれば、これは人権条約のみならず人道法条約にもあてはまる。特に最近の人権と人道法の分野における国際法の発展に照らして解釈すると、ハーグ第4条約第3条及び追加議定書第91条はそのような規則の好例である。赤十字国際委員会の追加議定書第91条に対する注釈はこの発展を認めている。「賠償を受ける資格を有するのは通常は紛争当事国かその国民であり、中立規則違反又は紛争当事国の領域内での中立国民に対する不法行為のような例外的な場合には中立国も対象となる。…しかしながら、1945年以後、個人による権利の行使を承認する傾向が現れた」
19. したがって、ハーグ第4条約第3条及び第1追加議定書第91条は、平和条約その他の合意を通じて二国間の仕組みを設立する国家実行や被害国による賠償問題の処理には非常に長い期間を要するという事実にも関わらず、個人が国際人道法違反によってもたらされた損害の賠償を請求する権利を排除していない。20. そこで、外国が責任を認めているにも関わらずその救済の枠組に含まれず、結果的に違反に対する賠償を受ける権利の享受者となる可能性を奪われた国際人道法違反被害者の場合はどうなるのかと言う問題が提起される。とりわけその国内裁判所に訴えることが被害者らにとって利用可能な唯一の救済方法である場合に、被告国家が賠償義務の障壁として主権免除を利用することが許されるのか?私見によれば、これが裁判所が本件において検討すべき根本問題である。
21. 私は、国際法における主権免除の射程と範囲並びに例外と不適用に関する説得的とは言えない多数意見のアプローチと理由づけにも同意できない。法学者の一部は主権免除は領域主権と管轄権の原則の例外にすぎないと考えているが(例えばRヒギンズ「主権免除の法の未解決の側面」参照)、実際には主権免除は単なる礼譲の問題ではなく慣習国際法規則である。ただし、その適用範囲は国家中心の法制度から国家に対する個人の権利も保護する制度への国際法の進化を反映し、前世紀を通じて縮小されてきた。
22. 主権免除の適用範囲の縮小は国内裁判所の判決に牽引され、国家や国有企業との取引を行う個人の権利についての認識の発展に助けられてきた。実際、国家に対する個人や法人の権利を保護する目的により、制限免除主義は早くも19世紀に国内裁判所に導入された。同様に、国家に対する個人の権利を保護するために不法行為例外が発案された。
23. したがって、主権免除は国家間の調和と友好関係を維持するために重要ではあるが、その適用範囲が全ての状況において明確であり一貫性と安定性を具備した法の規則とは言えない。国家実行における免除の射程と範囲についての解釈と適用には、特に各国の裁判所の判断において非常に多くの相違点がある。したがって、免除の適用に関する相反する国内判決が継続して存在するにもかかわらず、いくつかの免除例外を慣習国際法の一部であると位置づけることは、これと異なる国内判決を根拠とする他の例外を慣習国際法の不存在の裏付けと解釈することと同様に余り説得力がない。これは、とりわけ両者とも援用するケースの数が限定されている場合にはチェリー・ピッキング(自論に都合の良い事例のみをとりあげて立論する詭弁)の印象を受ける。
24. 例えば、一握りの国内裁判所判決(判決73-74項参照)が、
「主権行為についての主権免除は、当該行為が法廷地国で行われたとしても、武力紛争の遂行における軍隊その他の国家機関による人の死傷や財産の損害をもたらす行為である場合には引き続き民事訴訟に適用される」(判決77項)。
という主張を支持する国家実行に基づく慣習国際法の存在を実証する役目を果たすのか疑問である。同じように、イタリア・ギリシャの最高裁判所判決に反対する判決により重点を置いた理由も疑問である(同27-36項)。慣習国際法は相対多数の問題なのか?
相反する裁判例や国家実行の存在に照らし、この分野の慣習国際法は未だに不完全で不安定であることを認めるのがより適切ではなかったか?
25. 行為の性質によって特定の例外を分類するという実際的な目的にしばしば利用される業務管理行為と主権行為という伝統的な区別さえ、特定の行為がどちらに属するかの分類は諸国家と国内裁判所において未だに論争の対象であり、一定の形で普遍的に適用されて いるとは言えないことを想起すべきである。その上、区別の基礎をなす概念、すなわち商業取引の定義も曖昧である。現在のところ、主権免除に対する例外や制限は常に発展し続けている。
26. 実際、主権免除はスイスチーズのように穴だらけである。したがって、慣習国際法が国家実行と法的確信の中で発見されるものである以上、相反する国内裁判所判決の解釈と適用が現在の実行の特徴であるということは、とくに人権と国際人権法違反の分野において主権免除の射程距離と範囲が国際慣習の未だに不確実、不安定で輪郭がはっきりしない分野であることをはっきりと証明している。
27. 私見によれば、武力紛争時における人権と人道法違反(又はその違反に対する賠償の欠如)に関する未だに数が少なく互いに矛盾する国内裁判所判決を形式的に調査したり、免除を適用又は不適用するためにそれを数えたりする事を通じては、これらの不確実性は適切に解決されない。そのような方法は余り有益な結果を生みそうもないし、この分野の法の解明に貢献しそうにもない。その上、裁判権からの主権免除は抽象的方法により解釈したり孤立して適用すべきではない。各事件ごとの特徴や事情、基礎となる事実を全て考慮すべきである。本件は責任国が自ら認める違法行為に対する、他に利用できる救済手段が存在しない状況下での賠償請求である。これが多数意見も認めるように(第60項)、本件が特異であることの理由である。
28. 人権と人道法による基本的権利という、法廷地国が領域内で保障義務を負い、その現実化が国際社会の基本的な価値観を反映する問題をめぐる紛争において主権免除が問題になった場合、現代の国際法の下では「国際社会において共に価値のある二つの機能の間の均衡が達成されねばならない」と考えるのがより適切である(2000年4月11日の逮捕状事件(コンゴ民主共和国対ベルギー)判決, ヒギンズ, クーイマン, バーゲンソール裁判官共同個別意見)。今日の世界において主権免除を裁判を受ける権利や有効な救済を妨害するために利用することは免除の悪用と評価されるであろう。
29. そのような均衡が、主権免除の本質的機能及び目的と、基本的人権と人道法の原則の保障及び現実化の間に求められなければならない。欧州人権裁判所(ECHR)はウェイトとケネディ対ドイツ事件及びBeer and Regan対ドイツ事件において免除の享受(国際機関のケース)と裁判を受ける権利及び有効な救済手段の権利との均衡の必要性を認め、下記の点を強調した。
「裁判所にとって、ドイツの裁判権からの免除をESA(欧州宇宙機構)に与えることが欧州人権条約の下で認められるかどうかを決定する重要な要素は、欧州人権条約上の権利を実効的に保護するための合理的な代替手段を申立人が利用可能であった否かである。」
30. 私見によれば、本件においてイタリア裁判所が国際法上主権免除を認めるべきであったか否かを検討するに際し、イタリア裁判所に提起された請求に特有の事情と直接に関連する人権と人道法の基礎をなす原則の適用、実効的な救済の権利のような基本権の具体化、人道法違反の結果として発生した損害の賠償を受ける権利、裁判拒否からの保護を検討の対象から除外することはできない。また、イタリア裁判所に係属した事件で問題となった主権免除の法は現代の国際法の状況下におけるそれらの権利の現実化と抵触する方法で解釈されてはならない。更に重要なことは、適切な補償がなされていない人権と人道法違反の事件のように主権免除規則やその例外がともに不確実・不安定なときには、それらの原則と免除付与の目的についての均衡と正当性の評価を頼りに判断すべきだということである。31.そのような原則は国連総会が宣言した「国際人権法及び国際人道法に関する重大な違反の被害者が救済及び賠償を受ける権利に関する基本原則とガイドライン」に含まれている (2005年12月16日決議)。 これによれば、
「11. 国際人権法に対する重大な違反や国際人道法への深刻な違反による損害の救済策には、国際法によって認められた下記の被害者の権利が含まれる。
(a) 平等で実効的な裁判の利用
(b) 適正、効果的、迅速な被害補償
(c) 違反と補償手段に関する情報へのアクセス」。
「12. 国際人道法への重大な違反の被害者は . . . 国際法の下で認められる実効的な司法救済を平等に利用する権利を有するべきである。」
32. 国連総会決議の条項の説明の中で国連特別報告者デオ・ヴァン・ボーベンは次のように言及した。「当初からこの原則とガイドラインは国家責任法に基礎をおいていた. . . しかし一部の政府は国家責任法の条項は国家間の関係を念頭において作成されたものであり、国家と個人の間の関係に適用されるものではないと主張した。この主張は広く承認された多数の人権条約により人権が国際法の不可欠で活動的な一部となったという第2次世界大戦後の歴史的な発展を無視するものであると批判された。また、それは政府による不法行為に対する救済策を備える義務が非常に広く認められ、人権の侵害、更に強い理由により、重大な人権の侵害に対する実効的な救済の権利が慣習国際法の 一翼を形成すると考えられるようになったことを無視するものであるとも言われた。」
33. 同じように、国連ダフール委員会報告書は下記のように述べている。「現在では、人権に対する重大な侵害が行われ、それが国際犯罪も構成する場合、慣習国際法はその侵害を行った個人の犯罪責任を定めるだけでなく、その犯罪者の国籍国又はその犯罪者が法令上又は事実上の機関として行動した国家の損害補償(賠償を含む)義務も課している」
34. 判決第52項に記載されたナチス体制による不法行為のイタリア人被害者の3つの類型の中で、多数意見は特に実際にはナチス当局により戦争捕虜としての待遇を拒否されたにもかかわらず戦争捕虜は強制労働に対する賠償の対象ではないとしてドイツによって補償対象から除外されたイタリア軍人収容者の苦難を強調する。少なくともこの類型の被害者は国家間合意やドイツの国内立法のような仕組みを通じてドイツから賠償を受け取る可能性がないと判断されるから、私見によれば、多数意見はイタリア裁判所がドイツに免除を認めるとイタリア軍人収容者の補償請求権、裁判を受ける権利、被害に対する実効的な救済の権利を侵害することになるのではないかという問題を検討すべきであった。35. 主権免除は国際法において不変の価値ではない。その国際社会の発展に対する適応性と柔軟性は前世紀を通じて徐々に創設された多くの例外により証明された。その大部分は国家との商業的取引にかかわった個人、又は国家官憲の不法行為の犠牲者である個人の国家に対する権利保護の規範的重要性の増大を反映したものであった。これは国家間の関係の安定や国家に関する訴訟の管轄権の秩序ある分配と実行のための主権免除の重要性が弱まったということではない。主権免除は例外の増加にもかかわらず、そのような機能を果たし続けている。
36. 主権免除の法と例外が未だに不確実又は不安定な国の国内裁判所に国際犯罪に起因する請求の事件が提起された場合、主権免除の許否の判断のためには、提起された請求の性質について適切に評価するだけでなく、その判断が国際社会において同等の重要性が認められている他の規範的価値に与える影響について評価することが求められる。実際に、外国の権利としての免除の可否についての判断の前に、免除例外の適用の可否を判断するために、事件の基礎をなす事実の調査を行わなければならないことは、国内裁判所の判決において広く認められている(例えば、ハノーファー労働裁判所Conrades 対 英国 (1981)、英国控訴院 Farouk Abdul Aziz 対イエメン (2005)、カナダ最高裁判所 クウェート航空対イラク(2010)参照)。この文脈において、フランス破毀院はブシュロン事件判決において次のように述べた。
「慣習法による外国の主権免除は相対的なものにすぎず、いくつかの例外を認める。したがって主権免除が申立てられた裁判所は、申立に理由があるか否かを判断するためにその申立の有効性を本案事件に照らして検討しなければならない。」
37. したがって、主権免除の予備的な性格は、主権免除が主張された行為についての適切な法的評価に基づいて免除が申立てられているかの検討や、必要な場合には管轄権の有無を検討するために事件の基礎をなす対立する要素を比較衡量することについて国内裁判所(本件においてはイタリア裁判所)を排除するものではない。38. 本件におけるドイツの主張の中心は、下記のように主権行為について国家が享受する主権免除には重要な制限は存在しないという認識にある。
「武力紛争時における軍隊による人道法違反について主権免除を制限する法的確信に裏付けられた一般的なd国家実行は存在しない。」(ドイツ訴答書面第55項)
ドイツによれば、「戦争被害に関する請求の解決の国家実行はきわめて一貫している。そのような請求は通常関係国間の国際条約によって解決される。特に第2次世界大戦の結果生じた全ての請求はこの伝統的な方法に従った。」 (同)
39.一方イタリアは次のように主張した。「1961年協定によりドイツが認めその後の片務的措置により再確認した第2次世界大戦末期のドイツ当局による国際人道法違反について、多数のイタリア人被害者に対する適切で実効的な補償をドイツが継続して拒否していることを検討する必要がある。」(イタリア答弁書第6、15項)
イタリア側の見解によれば、「国際法のあらゆる重要な規則違反について、そのような恥知らずで長期にわたる補償の拒否に直面したイタリアの裁判官らは主権免除原則の適用によって被害者らの請求を簡単に却下することができなかった。明らかに裁判官らは補償が全くなされていない重大犯罪に単なる手続法の原則を適用することによって典型的な裁判拒否の状況を作り出すかも知れないと感じていた。イタリア裁判所が主権免除を認めるなら数千人の被害者の全ての補償要求を完全に阻止することになる。それらの請求が目的を達成する全ての可能性を実効的に拒否することになる。反対に彼らはドイツに対する主権免除否定に綿密な理由づけを行い、本案において請求が現実化するか否かについて確認した。(同 第6、16項)
40. 人道法違反に起因する補償と主権免除との衝突の可能性の問題は最近万国国際法学会の報告と決議において取り扱われた。2009年同学会ナポリ会議に向けた「個人の基本権と 国家裁判権からの免除」と題する報告書の導入部において、報告者のレディ・フォックスは次のように述べた。「主権免除について更に困難な問題が生ずる。すなわち官憲個人は一般に国内裁判所における刑事訴追の対象となるのに、その行為を命じた国家がそのような犯罪の結果に対する補償請求の民事訴訟から主権免除によって守られるのは不合理であり道徳的に正当化できないということである。」
41. レディ・フォックス報告についての決議の中で学会は、「国家とその官憲の裁判権からの免除と国際犯罪に起因する賠償請求の潜在的な抵触」を課題のひとつとして検討し、裁判所に提起された紛争の争点に関連する二つの見解を公表した。第一に決議は前文で「国内裁判所における主権免除の否定は国際犯罪に対する実効的な補償の実現のための一つの方法である。」と認めた。第二に決議は原則についての第2条第2項で「主権免除はこの決議が認めた犯罪の被害者に対する適切な補償の障害物となってはならない。」と表明した。 (同228-230頁)42. これらの意見表明は、第2次世界大戦中の第三帝国による残虐行為のイタリア人被害者のように、他の救済手段が利用できそうにないという、武力紛争時の不法行為に起因する補償請求のなかでも特に例外的な状況にあるものと主権免除の関係についての国際法の現段階の状況を反映したものであると考える。私見によればこの声明は外国の官憲による不法行為についての損害賠償が国内裁判所に提起された場合には常に主権免除を否定すべきだという意味ではない。ただ、犯罪被害者に対する適切で実効的な補償の必要性を示し、他の救済手段が利用できないという例外的な事情の下で主権免除が補償の障害物となるべきではないと述べたのである。これは被害者にとって他の救済方法がないという特別な状況に限定された非常に極限された免除例外である。これらが本件にどのように適用されるかという問題は後記の第49-54項で論ずる。
43. 主権免除に関する法は歴史的に国内裁判所判決を通して発展した。主権免除の性質や範囲を最も頻繁に決定し発展させてきたのは、いつの時代にもそのような国内裁判所であった。業務管理行為と主権行為の区別やその他の主権免除に対する制限や例外も国内裁判所によって形作られた。そのような変化の多い環境の下では特定の状況における法の解釈と適用についての見解の不一致や衝突が必ず生じる。したがってそれらの例外や制限の多くの側面が不安定なままであるのは驚くべきことではない。
44. イタリア裁判所の判決とギリシャのディストモ事件判決は、不法行為例外、雇用例外、知的財産権例外のような主権免除の多く例外を形成してきた国内裁判所の判決による幅広い発展過程の一部と見ることができる。最初に一つか二つの国内裁判所が認め、判決当時の慣習国際法における主権免除の射程と範囲について不安定な性格を与えたとき、これらの例外は国際法違反と考えざるを得なかったのではないかということが当然問われなければならない。
45. この関係において特に興味深いのは、不法行為例外を最初に認めた判決のひとつであるオーストリア最高裁判所の1961年ホルベック対米国政府事件判決について多数意見が肯定的に言及していることである。現在では広く適用され、主権免除に関する現行の全ての条約の中に成文化されているこの重要な例外の運命を想起してみると、オーストリア判決は60年代半ばには国際司法機関により主権免除違反とされていた。幅広い法的確信と国家実行を獲得する初期の状態で明らかにその芽を摘まれるところであった。
46. デニング卿は制限免除主義について下記のように述べた。
「変化が起こる時は常に誰かが、いつか、最初の動きを起こさなければならない。一つの国が独自で最初の変化を開始し、他の国が追随する。最初は一滴、やがて流れになり、最後は洪水になる。」(ブローマ―「主権免除と人権侵害」1997から引用)
47. 特定の国際法の規則は法廷(主権免除のケースでは国内法廷)がその地位を明らかにして法的性格を確立するときまでグレーゾーンに残され、その存在について法律学界において議論される。これは主権免除の例外と制限について繰り返し行われたことである。実際に主権免除の例外と制限は、外交交渉、会議の決定、国際的な司法・仲裁機関の宣言を通じて発展してきたのではない。それは多くの場合、次第に主流となるひとつの、時には孤立した国内裁判所の判決を通じて発展したのである。48. 従って主権免除の分野では、その判断が最初は他の裁判所と共有されず、関心を払われず、従来の国家実行と一致しなくとも、そのような国内裁判所が法発展機能を果たすことを排除するものではない。主権免除の制限や例外の一部について初めて定式化した特定の判決への言及を通じて多数意見自身が将来の主権免除の法の発展のための国内裁判所の能力を認めているように見える。
49. 万国国際法学会に対する「国内裁判官の活動とその国家の国際関係」と題する報告書の中で、ベネデット・コンフォーリ教授は次のように述べた。
「決議案の第4-7条 において、国内裁判所の独立は国際法の多様な源泉との関係において考察される。まず慣習法について言うと国内裁判所が慣習法の適用を求められ た場合、その判断について完全に独立していることは疑いがないように見える。しかしながら、それらの判断にはやや問題となりそうな二つの側面がある。第一は裁判所の慣習法形成及び修正に対する関与である。第一の側面に関する限り、国内判例の主要動向を踏まえると、裁判所は慣習法が正義と公平の要請に合致するかを検討し、合致しない場合にはその結論が形成段階にあり不完全なものであっても国家実行に根拠がある場合には適用を拒否し得ると言うことができる。」
彼はさらに次のように付け加えた。「この点についての結論として、慣習法の消滅又は新しい慣習法の形成が未だ不完全なものであっても国際的又は国内的実行に基礎を置くものであれば、裁判官は従来の慣習国際法の適用を拒否するか、法的確信の存在を確認できる場合にはその一部又は全部を修正し得ると言うことができる。」(仮報告書 第2部 司法の独立と国際法の源泉 386-387頁)
50. 主権免除規則と国家の官憲による国際犯罪について個人が補償を受ける資格は双方とも変化の過程にある。万国国際法学会は上記のナポリ決議中の「国家及び官憲の主権免除と国際犯罪に対する補償請求の内在的抵触」に言及した部分でそれを認めた。そのような抵触は過去には存在しなかった。それは最近発生したものである。それは主権免除は犯罪被害者に行うべき補償を免れる障壁として利用されてはならないという国際社会で広く支持された見解(一種の法的確信)の結果である。私見によれば、これがイタリア破毀院がフェッリーニ事件とその後の事件で扱った状況である。51. 私見によれば、責任国も認めている武力紛争法への深刻な違反に対する補償の懈怠についての国内裁判所による管轄権の主張は、とくに他の救済手段が存在しない場合には外国の独立や主権を害するものではない。それは被害者が補償のための他の手段を持たない状況下で人権と人道法及びこれらの権利の具体化を保証する広く支持された法的確信に基礎を置く、主権免除に対する新しい例外の具体化に貢献するに過ぎない。
52. 戦争犯罪や人道に対する罪についての補償の懈怠はとくに他の救済方法が利用できない場合には国内裁判所での主権免除否定につながるという認識は、主権免除の射程をさらに狭めるというよりは国際社会が付与した人権と人道法の保障の規範的重要性の増大と人類に対する実効的な救済を現実化する権利を調和させるものである。それは国家による人道法への無配慮を抑止する効果も持つであろう。
53. イタリア人被害者の請求をとりまく例外的な状況のなかで、「免除が特定の事件について裁判権の行使を妨げるという事実は、実体国際法の適用可能性に影響を与えるものではない」(判決第100項)と述べることで十分なのか、明らかとは言えない。この文脈において、 そのようなケースで免除が与えられた場合、被告国家は自ら認めている違反の被害者に代替する救済策を設ける義務を負うのかという疑問が提起される。これは手続中又は判決において回答が示されるべきであった重要な疑問である。その上請求を実現させる可能性のある補償手段や救済手段が備わっていない責任というものが被害者の役に立つのか疑問である。
54. 上記の主張は国際人道法又は人権に対する侵害についての補償請求があれば、必ず侵害行為が行われた国の国内裁判所が侵害に責任を負う国の主権免除を否定する資格があることを意味するものではない。それでは無数の訴訟が法廷地国の司法機関と責任国の政府機構を埋め尽くす結果となる可能性がある。その上前記のような伝統的な国家間協定や補償の仕組みに加えて、安保理事会決議687によって設立されたイラクのための国連賠償委員会(1991)、2000年12月12日の合意により設立されたエリトリア・エチオピア請求権委員会のような国際法違反の被害者への補償を可能にする新しい実行が近年国際的なレベルで発展しつつある。
55. そのような委員会に付託された個人の請求は各国によって実現されるべきであるが、 最も重要な問題はそのような補償請求を対象とする救済手段が利用可能であること、補償のための実効的な手段が得られることにある。私見によれば、イタリアのケースのように 国家間の賠償計画によってもその他の国際機構によっても責任国の立法によってもカバーされず、当該被害者らがいわば制度の隙間から滑り落ちた特定の類型の被害者のための補償においてのみ法廷地国の裁判所は裁判の拒否を避けるため重大な人道法違反の被害者らに代替する最終的な補償手段と実効的な救済手段を提供する資格が与えられる。万国国際法学会がナポリ決議で言及した「内在的な抵触」はそのような例外的な状況下においては国際人道法の重大な違反の被害者らの利益となるよう解決されねばならない。
56. 本件紛争の核心的な争点は、人権又は人道法に対する違反であると訴えられた場合に常に主権免除が制限されるべきであるという一般的に言うところの主権免除に対する人権または人道法例外ではない。核心的な争点は主権免除が国際犯罪の被害者の実効的な救済を妨げ他に救済の手段がないという例外的な状況において、そのような主権免除が国内裁判所によって許容されるのか否かである。換言すると 補償のための他の救済手段が存在しない場合に、主権免除が国内裁判所において被害者への補償義務を回避するための障壁として利用されてよいのかということである。
57. そのような場合には、上記(49-54項)に示唆したような極めて限定された範囲において主権免除を否定することにより人道法はよりよく適用され、人権に基礎をおく国際社会の価値も全体としてよりよく保障されると考える。
58. 国連の主要な司法機関として、裁判所は特に法が不確定又は不安定な場合に国際法の規則を明確化したり指針を提供するという重要な役割を持っているが、本件はこれを果たす貴重な機会である。裁判所はその意味において、被害者に他の補償手段が存在しないという状況の下で主権免除に対する限定的で実行可能な例外をすでに発展している法として明らかにすることができたかもしれない。そのような例外は人権と人道法の保障に対して国際社会が与える規範的重要性の増大及び主権免除の不当な適用を排除することによる国際犯罪の被害者の実効的な救済を受ける権利の現実化と主権免除の調和をもたらしたかも知れない。
59. 補償が実行されず、責任国は人道法への深刻な違反への関与を認めており、被害者には救済手段が与えられていないという例外的な状況における国内裁判所による管轄権の主張は、私見によれば国家関係の調和をかき乱すものではなく、国際人権、人道法のより厳格な遵守に貢献するものである。