한국어
日韓請求権協定解釈の変遷と大法院判決
2019年4月20日に弁護士会館講堂で行われた国際学術シンポジウム「戦争及び植民地支配下の人権侵害の回復と平和構築に向けて」における基調報告の反訳に加筆訂正した。
韓国大法院判決に対する日本政府とメディアの猛非難
ご存じのように、去年の10月30日に新日鉄住金(現日本製鉄)事件の韓国大法院判決が出されました。強制動員被害者に対する賠償を新日鉄住金に命ずる判決が確定したのです。これに対して日本の政府、メディアからは被害者に対する慰労の言葉、謝罪の言葉は一言もなく、ただ判決と韓国政府に対する非難の言葉で埋め尽くされるという事態になりました。
ごく最近では、あろうことか私たちと同じ弁護士で、しかも野党の国会議員の候補予定者であった人がこの問題をめぐって「ごろつき、三等国家韓国」などとSNSに投稿するということさえ起こりました。さすがに党の代表者と本人が謝罪して立候補を取りやめるということにはなりましたが、そのような信じられない事件まで起きています。
このような感情的なものは論外として、例えば「この判決は解決した問題の蒸し返しである」、「韓国政府は2005年ごろにこの問題は、韓国政府が肩がわりすると約束したはずだ。そのとき今の大統領は首席秘書官だった。」「今回の判決は日韓の共通認識を突然ひっくり返したちゃぶ台返しである」、それから、これは安倍首相の発言ですが、「このような判決は国際法に照らしてあり得ない判断である」というように一応事実らしきものを挙げて非難する言説については、それが真実かどうかということを確認していく必要があります。
個人請求権は消滅しないと力説してきた日本政府
まず、「解決した問題の蒸し返し」という言説は日韓請求権協定の文言がもとになっています。第2条の「両締約国は両締約国およびその国民の財産、権利および利益ならびに請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」という文言です。非難の根拠は非常に簡単で、「完全かつ最終的に解決した」と書いてあるから完全かつ最終的に解決したはずではないかと。まさにそれだけのことだろうと思います。
ところがこの文言はそのようなことを意味しないのだということを一生懸命力説してきたのが日本政府だという事実があります。それを隠すか、あるいは伏せたまま非難しているのです。
このような日本政府の主張は1951年のサンフランシスコ平和条約のときに始まりました。この条約には国民の権利を「放棄する」と書いてあります。これに対して広島の原爆被爆者が日本国を相手に訴訟を起こしたのです。被爆者はアメリカ合衆国ないしトルーマン大統領に対して損害賠償請求権を持っていたのに、これをサンフランシスコ平和条約で日本政府が消滅させてしまったとして、アメリカからの賠償にかわる補償を日本国に求めたのです。「原爆裁判」と呼ばれている裁判です。道路の拡張工事で家の庭先が削られる人が補償を請求するのと同じように、損害賠償請求権を消滅させるなら補償をしろという極めて当然の請求です。
ところがこれに対して日本政府は、「いや、補償する必要はない」と答えたのです。「国家の権利である外交保護権は条約によって放棄できるが、個人が直接外国に賠償を求める権利は国家の権利ではないから条約で放棄することはできない。だからサンフランシスコ平和条約に書いてある『放棄する』とは個人の権利を消滅させるものではなく国の権利である外交保護権を放棄しただけだ。したがってこの条約によって被爆者が法的に損失を受けたわけではないから補償する必要はない。」このように反論しました。
日韓請求権協定も外交保護権だけの放棄
1965年の日韓請求権協定についても締結のときから同じ解釈をしています。『時の法令』という官報の雑誌版のようなものがあるのですが、そこに日韓会談の交渉担当者だった外務官僚が解説を書いているのです。「『完全かつ最終的に解決』とは外交保護権の放棄であって個人の請求権の消滅ではない。従って朝鮮半島に財産を残してきた日本国民に政府が補償する必要はない」という解説になっています。
国会では、日韓請求権協定第1条の有償・無償5億ドルの経済協力と、2条による「完全かつ最終的に解決」には法的な関連はないという説明をしています。不法な植民地支配について賠償したのではないということを強調したのです。「あの5億ドルで解決したはずだ」という人がいますが、初めから日本政府は、そうではない、5億ドルは請求権の代償ではないと表明していたのです。
当時日本政府はまさか韓国から被害者がやってきて日本の裁判所で裁判を起こすなどということは全く想像もしていなくて、とにかく関心は日本国民からの補償請求にしかなかったのです。ところが1990年ごろから続々と韓国の被害者が日本に来て訴訟を起こし始めました。数年のうちに50件ぐらいの裁判が起きるという予想もしない事態になったわけです。日本政府は大変困ったのですが、非常に明確に「外交保護権の放棄にすぎない」と前に言っているので、いきなりそれを変えるわけにもいかず、1990年代前半に国会で追及されると、韓国人の被害者についても個人の請求権は残っているという答弁をしました。このような答弁はたくさんあるのですが、その一つ、1991年8月の柳井条約局長答弁は「日韓請求権協議におきまして、両国間の請求権の問題は最終かつ完全に解決したわけでございます。その意味するところでございますけれども、これは外交保護権を相互に放棄したということで、いわゆる個人の請求権そのものを、国内法的な意味で消滅させたというものではございません」と、非常に明快です。「完全かつ最終的に解決」の文言の解釈としてそのように言っているわけです。
というわけで、サンフランシスコ平和条約、今は触れませんでしたが、日ソ共同宣言、そして日韓請求権協定での「放棄」や「解決」とは、「外交保護権の放棄であって、個人請求権は消滅していない」、これが日本政府の本来の解釈、立場だったということです。その立場を当初は守って、1990年から始まった裁判の中で最初の10年間ほどは国側が「請求権協定で解決済みですよ」という主張をしたことは一度もない。10年間、なかったのです。原告側の個々の理由、例えば国際法に基づいて請求した事件については、「個人には国際法の法主体性がない。個人が国際法を根拠に訴える資格はない。」などというような理屈で防戦していたわけです。
日本政府の解釈の転換
ところが2000年ごろになると、特に中国人強制連行の事件で国側のいろいろな主張が打ち破られてきます。例えば、消滅時効を援用すると、「いや、国側が資料を隠しておいて、今さら時効というのは信義則に反する」。それから国家無答責といって、明治憲法のもとでは国家は不法行為責任を負わないと考えられていたのですが、「それは旧憲法下の解釈であって、現憲法下で適用できる解釈ではない」などというように、論点ごとに国に不利な判断が次々に出始めて、ついに国が敗訴する事件まで現れました。
この状況になって国側は突然解釈を変えました。「実は条約で解決してたんですよ」。「今まで言わなかったけど」などとは言わないですが、突然。裁判の途中でですよ。本当に一審では何も言っていない。二審も終わりかけて、「じゃあ、次回で結審」などというときに突然準備書面が出てきて、「実は日韓請求権協定でこれは解決してたんです」というようなことをやったわけです。当時たくさん事件がかかっていた地裁や高裁の全ての事件でこれをやったわけですから、さすがに非常に評判が悪くて、地裁、高裁の判決でこれを認めた例は、1、2例を除いてほとんどない。「今までの主張と食い違うじゃないか」というようなことで、ほぼ否定されたのです。東京高裁で1件、名古屋地裁で1件が認めただけかな。あとは全部否定していたのです。
国の新解釈を認めた2007年の最高裁判決
ところが、2007年4月27日の最高裁判決。これは西松建設の中国人強制連行事件と中国人日本軍「慰安婦」の事件に同時に判決が出たのですが、これが基本的に国の新しい主張を受け入れてしまったのです。つまり、「条約で解決済みである」と。この判決の理論は非常に雑ぱくで、何度読んでもあきれるものです。判決は「裁判では権利を行使できなくなるというのがサンフランシスコ平和条約の趣旨である」というのですが、そのようなことはサンフランシスコ平和条約のどこにも書かれていません。判決がこのように言う理由は、せっかく条約を結んだのに裁判を起こされたらまた解決がつかなくて困るからというだけの話です。
しかも「それがサンフランシスコ平和条約の枠組みである」。枠組みという法を初めて聞きました。国際法でもなければ国内法でもなし、慣習法でも条理でもない。
なぜこれが枠組みなのかと、いくら読んでみても、「サンフランシスコ平和条約の重要性に鑑みて」としか言っていないのです。「大事だから枠組みである」。そして、枠組みだから、その後に結んだ条約も同じような意味になるというのです。中国や韓国はサンフランシスコ平和条約に参加していないわけですが、日韓請求権協定も日中共同声明も、その後にできて、その枠組みの中にあるから、裁判で権利を行使できないという意味なのだと。韓国や中国にとっては非常に迷惑ですね。外国が勝手に作った枠組みがあって、その後どんな条約を結んでもその枠組みに沿った意味になるというちょっとあり得ない話です。
これは日中共同声明についての判決だったのですが、そもそも日中共同声明には「中華人民共和国政府は、中日両国人民の友好のために、日本国に対する賠償を放棄する」と書いてあるだけで、中国国民の権利の放棄などは何にも書いていない。それがサンフランシスコ平和条約の枠組みがあるから国民の権利を裁判で行使できなくなるという意味だというのです。
ただし、最高裁はこの判決で「ここでいう請求権の『放棄』とは,請求権を実体的に消滅させることまでを意味するものではなく,当該請求権に基づいて裁判上訴求する権能を失わせるにとどまるものと解するのが相当である。」と述べました。つまり、日中共同声明によって被害者個人の請求権が消滅することはないが、その請求権を裁判で行使することができなくなったというのです。
国民の権利の放棄について何も書いていない日中共同声明がこのような意味だというなら、「完全かつ最終的に解決」と書いてある日韓請求権協定は当然それに当てはまるということで、それ以降、韓国の被害者が日本で起こした裁判は全てその理由で棄却されることになりました。絶対に裁判で勝てなくなったということです。ただし、韓国人被害者についても日韓請求権協定によって請求権が消滅するのではないが、裁判による行使ができなくなったということになります。
日本政府は現在も個人請求権の存在を認めている
日本政府は最高裁の判断を当然受け入れなくてはいけないわけですから、その後の裁判で日本政府も最高裁の判決に沿った主張をしています。そのようなわけで、現在の日本政府の解釈は、日韓請求権協定によって「外交保護権は放棄した。個人の実体的請求権は消滅していない」、そこに、「消滅していないが、裁判による請求はできなくなった」という解釈がつけ加わったという状況になっています。これは現在でもそのとおりです。官僚は何か、ややこしい、わざと分からないような説明をするのですが、現在でも外務省などにしつこく聞けばこのような答えが返ってくることになります。
このように日本は解釈を変転させているわけですが、個人の請求権が消滅していないということだけは一貫して認めています。そうすると、消滅していない請求権を行使しようとすることを「蒸し返しだ」と言うのは理屈に合わない話ではないかと思います。
個人請求権が消滅したと考えていた韓国政府
さて、韓国政府の方はどのように解釈してきたか。一貫した解釈をしてきたのかというと、やはり一貫していません。1965年に日韓請求権協定を結んだころに韓国政府が出した解説書には、「個人の請求権は消滅する」とあっさり書いてあるのです。そのころの文献や判決のどこを読んでも個人の請求権と外交保護権放棄を分けて考えるという発想自体が出てきていない。そもそも当時の軍事政権の韓国政府は被害者の被害回復自体に関心がなかったのではないかと思いますが、ともかく個人の請求権は消滅すると理解していたと思わざるを得ない状況です。
そうすると、当初は日本と韓国の解釈がねじれていた。加害側の日本では「被害者個人の請求権は残っている」と考えていて、被害側の韓国では「被害者の請求権は消滅した」と思っていた。このようなおかしな状態になっていたわけです。しかし当時はこれに気づきませんでした。韓国では軍事政権のときに被害者が声を上げることはできなかったし、日本政府はこのような解釈をとりながら、今と同じように「完全かつ最終的に解決したんですよ」という政治的発言を続けたので、このようなおかしなことになっていることに気づかなかったのです。
韓国政府の解釈の転換
しかし、1990年代に日本で次々に訴訟が起きると、被害者たちは解釈がねじれているということに初めて気づくようになりました。そして被害者からの働きかけを受けた韓国の国会議員が韓国の国会で追及することになります。その結果、1995年から2000年ころに韓国の解釈が変わったことが明らかになります。1995年の外務部長官答弁と2000年の外交通商部長官答弁です。「請求権協定によって政府間の請求権問題は一段落した。しかし、個人の請求権には影響を与えない」という答弁です。金泳三政権と金大中政権のときのことですね。これは外交保護権放棄説です。日本の解釈に足並みをそろえ、この一瞬だけ日本と韓国が同じ解釈をとったということになります。
民官共同委員会見解
その後2000年代に入って、今日のパネラーの崔鳳泰弁護士が活躍され始めたころから更に大きく動きます。2002年に日韓会談文書公開訴訟が起こります。これは、日本軍「慰安婦」、強制動員、原爆被爆者、いろいろな被害者が100人で、日韓請求権協定締結に至る経緯が明らかにされなければその対象範囲も意味も明らかにならないではないかということで、関連文書の公開を求めたのですが、政府が拒否する。それで訴訟を起こす。そして一審で勝訴するのです。当時の盧武鉉政権は一度は控訴したのですが、結局控訴を取り下げて文書を公開しました。公開した後、善後策を協議しようということで、政府の関係者と民間の学者や被害者団体の代表などを集めて民官共同委員会を設置して検討します。その結果を民官共同委員会見解という形で公表したのです。この民官共同委員会見解の、何といいますか、主文のような部分、中心の部分には「日本軍『慰安婦』、サハリン同胞、原爆被害者問題は請求権協定の対象外である」と書いてあるのです。ところが強制動員の被害者についてはここでは触れられていない。後ろの方の解説のようなところを読んでいくと、請求権協定資金の5億ドルの計算の中には、強制動員被害者に対するものが総合的に勘案されている。だから「韓国政府は受領した資金の中から、相当金額を強制動員被害者救済に使用する道義的責任がある」という説明になっています。
ここで注意しなければいけないことは、このときに外交保護権放棄説をやめたわけではないので、この民官共同委員会見解は外交保護権放棄説に立っているということです。だから強制動員被害者の問題は日韓請求権協定の範囲内だと、仮にこれがそのような意味で言っているとしても、それは外交保護権を放棄したという意味にすぎない。個人の請求権が消滅したという意味で言っているのではないということになります。
韓国政府が責任を肩代わりすると約束?
ここでわざわざ「道義的責任」と言っていることにも注目すべきです。これを受けて韓国では幾つかの法律が作られて強制動員の被害者に慰労金などが支給されます。この全ての法律の冒頭に目的条項のようなものがあって、「人道的見地から」「国民和合のために」このような慰労金を支給するのだという趣旨が明らかにされています。つまり、決して日本の賠償責任を肩がわりするという趣旨でこの施策をとっているのではないということを、非常に注意して明らかにしているということになります。
最初にお話しした日本のメディアによる非難の中の「韓国政府は肩がわりすると約束したはずだ」とは恐らくこれのことを言っているわけです。そうすると、この非難は明らかにこの施策の趣旨を曲解していることになります。例えば日本では被爆者援護法で原爆被爆者に健康管理手当などいろいろな給付をします。その結果、健康管理手当を受け取ったらその分だけアメリカの責任が軽くなっていくのか。そのような問題ではない。それは全く別の問題です。韓国政府による慰労金支給と日本の企業・日本国の責任はそのような関係に立っている、別問題であると思われます。
韓国裁判所への提訴
最高裁判決によって完全に日本の裁判所が絶望になったのは2007年ですが、2000年代になると、ぼちぼち日本の裁判所を見限る被害者があらわます。韓国で裁判を起こそうということが始まります。新日鉄住金と三菱重工広島の元徴用工の人たちが韓国で日本国ではなく企業を相手に裁判を起こします。ところが最初は韓国の裁判所もよい反応ではありませんでした。ソウルと釜山の地裁と高裁で被害者は敗訴します。「消滅時効が成立している」とか、「日本の敗訴判決の既判力があるから韓国で違う判決を出すわけにはいかない」。それから、「新日鉄は日本製鉄の債務を引き継いでいない」。戦前の日本製鉄と、後の新日鉄は形式的には別会社なのです。財閥解体で旧会社が債務を背負ったまま消滅して、新会社が残るという手続きをとっているのです。会社の建物から、工場から、社長から、みんな同じなのですが、形式的には別会社です。日本の裁判でもそれで敗訴したことがあります。
このような理由によって被害者は韓国の下級審では負けていました。
画期的な2012年の大法院判決
それが、2012年5月24日の大法院判決でひっくり返ったのです。今お話しした下級審の判断は全て否定されました。消滅時効を認めたり、財閥解体による手続を理由に補償債務を引き継がないと認めたり、植民地支配が合法であるという前提の日本の裁判の既判力を認めてしまうことは、韓国憲法の根本理念に反し、ひいては韓国の公序良俗に反するということで、全ての判断を否定して、事件を高裁に差し戻しました。これはかなり衝撃的な判決だったのですが、このときは日本の政府とメディアは騒がなかったのですね。メディアは判決の内容ではなく政府の意向を受けて騒ぐのでしょう。韓国の裁判所の法的解釈が変わったのはこの時点だったのです。去年(2018年)ではないのです。
この判決は日韓請求権協定についても新しい判断をしました。日韓請求権協定はサンフランシスコ条約を受けた財政的問題を精算するための条約であって、日本の国家権力が関与した反人道的不法行為や植民地支配と直結した不法行為による損害賠償請求権は請求権協定の対象外だというのです。これまでは外交保護権放棄なのか、個人の請求権なのかという話をしていたら、ここで「いや、そもそもこの協定は関係ないんだ」という判断を打ち出したということです。この協定の締結過程で日本は植民地支配の不法性を一切認めなかった。不法性を全く認めず、植民地支配の性格について合意がないまま結んだ協定で、どうして不法行為による損害賠償請求権が解決されるのかという理由です。
ただこの判決は「仮に」と言って予備的な理由を述べたのです。「仮に原告らの請求権が請求権協定の適用対象であったとしても、それは外交保護権の放棄にすぎず、個人の請求権は消滅していない」。これは今まで聞き慣れた理屈。これを「仮に」という形で併記しました。そうすると、この併記した意味はいま一つ明らかではないですが、韓国政府としてはどちらの見解を選ぶのか選択の余地ができたと考えられます。
文大統領の「徴用工発言」
その後、韓国政府はどちらをとるのか、非常に関心を持ってニュースを見ていたのですが、韓国政府は何も言わないのです。5年以上。当時は李明博政権、その次は朴槿恵政権。両方とも強制動員問題について一言も触れなかったのです。
政権が変わって2017年の文大統領の夏の演説、ここで初めてこの問題に触れました。文大統領は、「政府間でいろいろ取り決めをしても、個人の請求権には影響がない」と言ったのです。つまり政府間で強制動員問題について「取決め」をしたことを前提としているので、大法院の予備的な「仮に」の方の立場で発言していることになります。画期的な大法院の判断にしたがうのではなく、従来の立場をとるということです。なぜか日本の政府とメディアはこのとき急に怒り出したのです。むしろ予備的立場の方をとったのだから、この問題には外交保護権を行使しないと言ったことになります。どちらかといえば、日本政府は安心しなければいけないのですが、政府もメディアも突然、何を怒っているのかというぐらい激怒する。ほぼ全社の新聞の社説が文大統領が強制動員問題について語ったこと自体が「とんでもないことだ」と書いたのです。
判決遅延工作の動機は?
その後、実は大法院の幹部が前政権の圧力を受けてこの判決を遅延させる工作をしていたということが暴露されたというニュースがあって、それを日本のメディアは人ごとのように報道しました。「ほら、韓国の司法は信用できないだろう」という感じで。しかし、韓国政府が大法院に圧力をかけるという、三権分立を侵害する危ない橋を渡るにはどのような動機があったのでしょうか。どこかから圧力があったのではないでしょうか。それを探って報道するのが日本のメディアの役割だと思うのですが。これはあくまで私の憶測ですけどね。政府が司法に手を突っ込んでかき回すなど、ものすごく危険なことでしょう。特に、韓国は大統領選挙でがらりと政権がかわるわけだから、そのようなことをしたら自分が刑務所に行く危険があることはわかり切っているはずです。それをあえてやったということは、よほどの圧力がどこかから加わったと言わざるを得ないだろうと思います。ついでに言えば、今「韓国政府は大法院判決に対処すべきだ」という人は文大統領や政府の関係者に刑務所に行く危険を冒せと言っていることになります。
そのような事件があった後、今度の大法院判決が出たわけです。
2018年の大法院判決
これは、2012年の判決の理論をそのまま踏襲したものです。特に新しいものではありません。ただ、新しいことがあるとすれば、2012年の判決は主位的な理由、つまり「請求権協定の対象外だ」という判断と「仮に対象だとしても、個人請求権は消滅していない」という2つの理由を併記していましたが、今度は大法院の判断としては請求権協定の対象外であることをはっきりさせました。これまでの「仮に」の方は、「結論には賛成だけれども、理由が違います」という裁判官の個別意見として示されたということになります。韓国政府も当然大法院判決に縛られるわけですから、韓国政府には選択の余地がなくなったのです。韓国政府も損害賠償請求権は請求権協定の対象外という認識をしていることになります。
両国の解釈の変遷
それで、日韓請求権協定の解釈を両国はどう変遷したかを、模式図にしてみました。
日本の方が点線です。最初は外交保護権放棄説になっていて、2000年にがらりと変わりまた。このときに混乱があって、どこまで変わるのかがよくわからなかったのですが、最終的には「実体的権利は消滅していないが裁判によって行使できなくなった」というところに落ちついたのが日本の動きです。韓国は実線の方です。1965年に「実体的権利も消滅した」というところから出発して、まず1995年から2000年に日本の解釈に合わせて「外交保護権だけを放棄した。個人の請求権は消滅していない」というところに移り、民官共同委員会のときに、「日本軍慰安婦問題は請求権協定の対象外だ」と確認して、2012年ないし18年の大法院判決で強制動員問題も請求権協定の範囲外であるというように変遷していったということになります。
ちゃぶ台返しをしたのは日本政府
韓国が「ちゃぶ台返し」をしたという非難があります。ちゃぶ台返しとは星飛雄馬のお父さんのように、理不尽なことを言って、せっかく並べた料理を全部ひっくり返して、一瞬にして楽しい食事を台無しにする、つまり、突然、理不尽な理由で、今まで積み重ねてきたものを全て覆すということです。確かに韓国政府の解釈は1965年と現在で大きく変わっています。しかし、変わるのに50年かけていて、「突然」というわけではありません。「理不尽な理由」かどうかは、立場によって評価が違うでしょうが、韓国の場合は2段に分けて変わっていて、1回めは日本の解釈と被害者の声、2度めは司法の判断ですね。そのような状況です。
むしろ、2000年の日本の解釈の変化、昨日まで請求権協定では「個人請求権はなくなっていません。請求が認められるかどうかは裁判所の判断です」と言っていたものが、負けそうになったら、突然ある日、全ての事件で「いや、解決してたんです」と言い出す。これがちゃぶ台返しではないかと私は思います。突然であったということ、そしてその理由が、ただ日本が負けそうだったからということだけですね。このようなことをちゃぶ台返しと言うのではないかと思います。
大法院判決の3つの意見
ここで、2018年の大法院判決をもう少し詳しく検討しておきたいと思います。この判決は、大きく言って三つの意見が示されています。先ほどからお話ししているものが多数意見、7名の裁判官による意見です。「反人道的不法行為による損害賠償請求は日韓請求権協定の対象外だ」と、2012年の判決を踏襲した意見です。それに対して3人の裁判官による個別意見が述べられています。これは、昔からのおなじみの考え。2000年までの日本政府、文大統領の演説までの韓国政府の見解、そして2000年代に裁判で国側が「請求権協定で解決済み」と言い出してから、日本の裁判所で原告側が一生懸命「いや、そうじゃないんだ」と言って主張した見解。だから、私などにはこれが非常になじみがある見解です。これを個別意見として3名の裁判官が述べています。「強制動員問題も日韓請求権協定の対象だが、外交保護権が放棄されただけで、個人請求権はなくなっていない」ということです。最後に二人の裁判官が反対意見を述べています。これは、「個人の請求権は消滅していないが訴訟によって行使できなくなった」ということで、日本の最高裁判決と結論的に同じ意見ということになります。それから手続き問題で個別意見を述べた人が一人います。そもそも2012年判決の拘束力、覊束力は今回の裁判にも及ぶから、ここでどうのこうのと議論すること自体がおかしいのだという意見です。二つの個別意見は結論には賛成ですから、結論は11対2になっています。
なお、大統領が裁判官を入れかえたからこのような判決が出たのだろうと思っている人がいるようですが、日本の最高裁と同じ結論の反対意見を述べた二人のうち一人は、文大統領が任命した新しい裁判官です。
4つの見解を比較する
多数意見、個別意見、反対意見という三つの意見に、この裁判で被告が主張していたと思われる「個人の請求権は消滅したのだ」という主張を加えると、次の図のようになります。
およそ論理的に考えられる全ての解釈が出そろったことになります。A説が被告の主張で、「実体的権利がないんだから、棄却されるのは当たり前だ」。B説が日本の最高裁判決と大法院の反対意見で、「実体的権利はあるけれども、外交保護権も放棄され、裁判で行使できなくなったから、棄却されるべきである」。C説は大法院の個別意見、2000年までの日本政府、従来の韓国政府の意見で、「実体的権利は残っている。訴訟による権利行使もできる。請求権協定によって、外交保護権が放棄されただけだ。だから、裁判所の判断で請求を認めてもよい」ということになります。そして、D説が大法院の多数意見、今の韓国政府の見解で、「実体的権利もあるし訴訟による権利行使もできる。そして請求権協定の対象外であって外交保護権も放棄していない。だから、請求を認めていいのだ」ということになっています。
日本と韓国の間の争点
そうすると、日本と韓国の対立はB説とD説を比べれば分かることになります。違いがあるのは「訴訟による権利行使ができるかどうか」と「外交保護権を放棄したかどうか」です。ただ、外交保護権の放棄はC説が外交保護権の放棄を認めながら、結論では原告を勝訴させているように、結論に影響を与える対立ではないわけですね。そうすると、結論に影響を与える対立は「裁判による権利行使ができなくなったかどうか」、これが日韓の解釈の重要な対立点になります。
ところで、国際人権規約(自由権規約)は、「民事上の権利および義務の争いについての決定のため、法律で設置された権限のある独立の、かつ公平な裁判所による公正な公開審理を受ける権利を有する」と規定しています。自由権規約を批准している国は裁判を受ける権利を自国の管轄内で保障する国際的義務があるわけですね。日本政府は国際裁判で決着をつけるなどと言っていますけれども、ちょっとセンスが悪いですね。「権利はあるけれども裁判はできないよ」と言っているわけですから。これを国際的な舞台に持っていって、「じゃあ、これと自由権規約の関係はどうなってるんですか」と言われないか、とても心配です。
多数意見が原告に有利か?
それから、少し細かくなりますけれども、多数意見(D説)と個別意見(C説)の違いについて説明したものがあまりないので、お話ししておこうと思います。この二つの意見は原告勝訴という結論は同じなのです。違いは外交保護権を放棄したかどうかだけです。そうすると、韓国政府が外交保護権を放棄していないという多数説の方が原告に有利に見えます。私もこの間までそう思っていたのです。しかし、よく考えてみると外交保護権というものは最後の手段なのです。だから、今韓国の法廷でとはいえ原告が勝訴している段階で、まだ外交保護権の出番とは言えないので、外交保護権の有無はあまり意味がないのではないかとも思われます。それから、昔は個人の権利の実現はおよそ政府におんぶして外交保護権で実現してもらうしかなかったのでしょうが、今は国際人権条約や国内裁判など個人の権利を実現する手段が多様化していますから、外交保護権の重要性自体もずっと低くなっています。しかも、そもそも政府が被害者の意思をきちんと反映して外交保護権を行使するかどうか。曲がった形で行使されたらどうなるのかという非常に厄介な問題もあるわけですね。そうすると必ずしも外交保護権を放棄していないという多数意見が原告に有利とも言えないのではないかなと思います。
日本政府は放棄したはずの外交保護権を行使?
今日本政府が被害者と民間企業の問題に介入して、「ビザ免除を停止する」、「韓国の財産を差し押さえる」などと言っていますね。日本国は当事者ではないわけでしょう。裁判で日本国が訴えられたわけではないのだから。そうすると日本国は日本企業である新日鉄の利益を保護するためにあのような行動に出ているということになります。これは外交保護権の行使ではないかと思うのです。そうすると日本は放棄した外交保護権を思いきり行使しているのではないかと思って、実は先ほどパネラーの阿部先生に「そうじゃないですか」と聞いたら、あまり賛成していただけなかったので、ちょっと保留にしておきますが、私はまだそのような気がします。今は韓国が多数意見で、「そもそもこの問題は、日韓請求権協定の対象外ですよ」と言ってしまっているから、日本が外交保護権を行使しても、「いや、お互いに外交保護権放棄したんでしょ」と言えない状況ですね。けれども個別意見の方に立っていたら「いや、お互いに外交保護権放棄したじゃないですか。あなた、何で出てくるんですか」と言えるのでないかなと、そのようなことを考えています。これは私の個人的な感想ということです。
ということで、特に多数意見が原告に有利かということはかなり微妙なところがあると思います。
ウィーン条約法条約の類推適用による解釈
反対意見を含む三つの意見は全て日韓請求権協定をウィーン条約法条約の類推適用により解釈しようとしています。この条約は条約の解釈方法に関する条約なのですが、日韓請求権協定より後にできた条約なので、条約そのものではなく、その元になった慣習国際法を根拠とすることになります。つまり条約や付属文書の文脈、締結後になされた合意、慣行、関連する国際法規則。それでもはっきりしない場合には条約締結の準備作業と締結の際の事情を考慮する。そして条約も一種の契約ですから当事者の意思の一致も当然考慮されます。そのような要素のどこに重点を置くかで、三つの意見が生じたのです。
どの意見にも難点がある
3つの意見それぞれに難しい点があります。難しいのは当たり前で、そもそも政治家が違うことを考えながら条約を結んだわけで、それを法律家は、仕方ないからつじつまが合うように解釈してあげようとしているわけだから、どう解釈してもどこかでおかしくなるのは当たり前です。できるだけおかしくない解釈が、すぐれた解釈ということになるかと思います。
それぞれに困難な点があります。例えば多数意見の場合は、日韓会談で韓国側が強制動員に対する補償・賠償のようなことを明らかに述べている。これとの関係はどうなるのかという点で「交渉上の駆け引きのための発言に過ぎない」というような説明をしていますが、かなり苦しいのではないかという気が私にはします。後でパネラーの吉澤先生にもし時間があればご意見を伺いたいと思います。
それから個別意見では、当事者の意思一致という点で、「日本は外交保護権放棄だと思ってこの条約を結んだ。韓国政府も当然それを知っていたはずだから、意思は一致した」などと書いてあるのですけれども、これもちょっと苦しいという感じがします。ただ、私は、現実としては日本は外交保護権を放棄だと思って結んだ。韓国は個人請求権の消滅と思って結んだのでしょうが、個人請求権を消滅させるということは当然外交保護権を行使する意思はないわけですから、少なくとも外交保護権放棄という点では意思が一致していたのではないかと思えるので、この点で個別意見が一番うまくまとまるのではないかと思います。
反対意見は最高裁判決と同じように裁判を受ける権利と衝突するという大きな問題があります。ただ、「完全かつ最終的に解決」「主張できないものとする」という文言にもとづく解釈は最高裁判決と違ってそれなりに説得力があります。最高裁は「国民が」放棄したという文言もない日中共同声明も日韓請求権協定も裁判による権利行使を否定するという同じ意味に解釈しようとしているので、日韓請求権協定の文言を理由とすることとができないのです。
国際法に照らしてありえない判断?
日本では条約の解釈権が最高裁判所にあるように、韓国では大法院に条約の解釈権があるわけですから、大法院が条約の適用範囲を判断するのは当たり前のことです。それから、ウィーン条約法条約を類推して解釈することは、日本の裁判所でも当然同じことをやるわけです。そうすると、今回たまたま最高裁判所と大法院の判断が異なっただけで、「国際法に照らして、あり得ない判断である」という評価、これはあり得ないのではないかと私は思っています。むしろ、裁判を受ける権利を否定することの方がずっとありえないと思います。
ICJは一括処理条約の効力について判断していない
ところで、反対意見は日韓請求権協定のような一括処理条約を結んだ場合に、一括で受け取った資金をどう使っても問題は解決するのだと述べ、その根拠として国際司法裁判所(ICJ)の主権免除事件判決を挙げています。しかしこれは全くの間違いで、ICJはそのような判断をしていないので、その点を特に強調しておきたいと思います。確かにICJ判決には、一括支払資金が他の目的に利用された場合、そのことが金銭の分配を受けなかった個人が加害国に請求する根拠となるのかは疑問であるという記載があります。しかしこれは政府間交渉による補償が成立するかどうかについて国内裁判所に判断能力があるか、という傍論の議論のなかで突然でてくる感想めいた記載なのです。このような感想をここに書き込むことが大変不適切だということはさておいて、ICJ判決は結論部分で「平和条約 77 条 4 項や1961年の協定」、これがいわゆる「一括処理条約」ですが、「については判断する必要がない」とか、「この裁判所の判断はドイツが責任を負うか否かの問題について影響を与えない」とはっきり述べているのです。ICJ判決が一括処理条約の効力について何も判断していないことは明らかです。
日本国憲法の理念と大韓民国憲法の理念
日本の弁護士の間では、私と同じように「多数意見より個別意見の方が、すとんと納得できるね」という意見が多いように思います。なぜ韓国では多数意見が法律家に支持されるのかというと、やはり韓国憲法の理念に忠実であろうとすると、どうしてもこちらに行くのかなということだと思います。そうすると多数意見は日本国憲法の立場からは受け容れがたいのでしょうか。私も最初は韓国には韓国の法理念があるのだから、それはそれで尊重すべきだぐらいに思っていたのですが、後で韓国憲法の前文を読んで、それから日本国憲法の前文を読むと、別に矛盾することは書いていないと思いました。
韓国の憲法の前文は「三・一運動により建立された大韓民国臨時政府の法統を継承し」と、韓国政府は大韓民国臨時政府の跡継ぎであると。要するに日本の植民地支配のときに上海で亡命政権を作って頑張っていた、あの政府の跡継ぎなのだということを第一に掲げています。つまり独立を堅持するということが憲法的価値だ。それによって外には恒久的な国際平和と人類共栄に貢献する、これが根本理念だということになります。
一方日本国憲法の前文は「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに、生存する権利を有することを確認する」と述べています。一国の憲法が全世界の国民に平和的生存権を約束しているのです。戦争を放棄している憲法が「世界の警察官」になることを宣言しているはずがありません。「恐怖と欠乏」とは日本の行為のことを指しているから全世界の国民に約束できるわけですね。恐怖という日本の侵略戦争、欠乏という日本の植民地支配、このようなことを二度と世界の国民にこうむらせませんよという決意を述べているのです。そうすると、韓国憲法は独立を維持することによって国際平和に貢献していこう、日本国憲法は二度と侵略戦争、植民地支配をしないことによって平和を維持しよう。このように言っているわけですから、これは同じことを反対側から言っているだけで、何の矛盾もないのではないかと思います。そのような意味で、韓国憲法の理念から来ているから多数意見が日本で受け容れられないということはおかしいのではないかと思います。個別意見と多数意見のどちらがいいかはまた別の判断ですが、少なくとも日本国憲法の理念と韓国憲法の理念が対立するというものではないと思います。
強制動員問題の解決に向けた努力
この大法院判決が出て、その後、三菱広島徴用工事件と名古屋三菱女子勤労挺身隊事件の大法院判決と不二越女子勤労挺身隊事件と日立造船事件の下級審判決が出ました。ずいぶん報道されていますが、数えてみるとこれまで出た判決に関係している被害者は66人、加害企業は4社に過ぎません。今、追加訴訟を起こすということで、ソウルと光州の弁護士が努力されているようですが、まさか数万人などということはない。どんなに多くても数百人規模でしょう。恐らく被害の数からは3桁足りないぐらいになるのかなと思います。そうすると、訴訟では権利行使はできなくなったということは論外ですが、やはりこの問題を個別訴訟の積み重ねで解決するのは、物理的にも無理がある思います。
被害者の人権回復のために、先ほどお話しした追加訴訟の努力に加えて、当事者間の和解の試みがあります。中国人の事件では和解が成立した事例が幾つかあります。韓国人の事件でも訴訟上の和解をしたものが3件あります。それから、ドイツにならって基金を作って、そこに加害企業が出し合って被害者を広く救済していこうという基金の構想、更にずっと前から取り組まれていて実現していませんが、日本できちんとした補償賠償立法を作って賠償補償していくのだという動き。このようないろいろな解決方法が模索されています。裁判だけでは解決しませんので、そのような模索が必要だと思います。これからの解決方法については、第2部のパネルディスカッションに譲りたいと思います。