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浮島丸事件
1浮島丸事件とは
敗戦から1週間後の1945年8月22日、海軍特設輸送艦浮島丸は青森県の下北半島に強制動員されていた多数の朝鮮人を乗せて大湊港を出航した。朝鮮人らは「これが最後の帰国船だ」「これに乗らなければもう食糧は配給されない」などと言われて浮島丸に乗船した。しかし、浮島丸は釜山に直接向かうのではなく日本の沿岸を航行し、8月24日に舞鶴湾に入港しようとしたところ、爆発して沈没した。
厚生省によれば、浮島丸には朝鮮人3735人と乗組員255人が乗船しており、このうち朝鮮人524人と乗組員25人が死亡したという。しかし、浮島丸には出航の直前に多数の朝鮮人が駆け込み乗船しており、もっと多数の朝鮮人が乗船していたはずだという証言がある。9月18日付の釜山日報は帰国した生存者の話をもとに、死者の数は5000人以上、原因についても陰謀による自爆ではないかという疑念を表明した。
浮島丸の沈没は日本では報道されず、後に韓国で自爆だという風説が報じられているという形で報道された。日本政府は沈没の原因は米軍敷設機雷への触雷である(触雷説)と述べたが、具体的な証拠を示すことはなかった。船体は長く海中に放置され、1950年と1954年に飯野サルベージが船体の再利用やスクラップとしての回収のために引揚げを行った。このときに多くの遺骨が回収されたが、専門家による原因調査が行われることはなかった。
その結果、多数の被害者は事件は日本軍部による計画的虐殺であり、犠牲者は数千人に及ぶと考えるようになった(国家犯罪説)。また、ジャーナリストの金賛汀氏は「浮島丸釜山港に向わず」(1984)で、韓国に行くことを忌避した乗組員らによる爆沈であると示唆した(個人犯罪説)。
2日本の市民運動・ジャーナリストの活動
日本では余り知られていない浮島丸事件であるが、舞鶴や青森の市民運動、ジャーナリストの活動がかろうじて事件の風化を防いできた。舞鶴では1954年から毎年慰霊祭が開催され、1978年には当時の舞鶴市長を委員長とする建立委員会により、慰霊碑が建立された。青森県下北地方でも強制動員のも目撃者の聞き取りなどの活動が続けられた。市民運動・ジャーナリストによる主な文献、映像として下記のようなものがある。
「爆沈」1977 NHK
「浮島丸釜山港へ向かわず」1984 金賛汀
「40年目の海」1985京都新聞連載
「浮島丸事件の記録」1989 浮島丸殉難者追悼実行委員会
「アイゴーの海」1992 下北の地域文化研究所
「恨の海」1994青森放送
「エイジアンブルー」1995(劇映画)
「報告 浮島丸事件訴訟」2001 公式陳謝と賠償を求める裁判をすすめる会
「爆沈浮島丸」2008 品田茂
3浮島丸訴訟
1990年頃、光州遺族会の訴訟(光州千人訴訟)を準備していた在日韓国人の宋斗会氏が、光州に多数の浮島丸事件被害者がいることに気づき、これを別の訴訟として提起することを提案した。その後光州遺族会の李金珠会長や、やはり多数の被害者を出した忠清北道永同の永同新聞社などが奔走して被害者に呼びかけ、1~3次合わせて82人の原告(生存被害者・遺族)が集まり、1992年に京都地方裁判所に提訴した。「日本国は強制動員という先行行為により、安全に帰還させる条理上の義務を負っていたので、原因が自爆であれ触雷であれ、被害者に対して賠償責任を負う」と主張した。
2002年8月23日の一審判決は被害者と国との間には乗船契約類似の契約関係があるとして、一部の原告に対する賠償を認めた。しかし、2003年5月30日の二審判決は日本の治安の維持のために多数の朝鮮人の命を触雷の危険にさらしても「当時の状況下におけるやむを得ない措置であった」という驚くべき理由により原告の請求をすべて棄却し、最高裁は2004年1月30日に形式的な理由で上告棄却、上告不受理決定を行った。
4新発見資料
事実関係が明らかでないこの事件では関係資料を発見することが非常に重要な課題となる。以前は初期の京都の運動のなかで開示させた死没者名簿が唯一の関係資料だった。
浮島丸訴訟の原告団は訴訟の提起にあたって東京の厚生省に赴き、乗船者名簿を始めとする資料の開示を要請した。しかし、厚生省は死没者名簿以外の資料は存在しないと回答した。訴訟の中でも原告側は乗船名簿がなければ死没者名簿を作成できなかったはずだとして、繰り返し資料の開示を求め、最終的に乗船名簿について文書提出命令を申し立てた。しかし被告はあくまで資料の存在を否定し、裁判所の勧奨により申立を取下げざるを得ず、情報公開法制定以前の当時としてはそれ以上の追及手段がなかった。
ところが、2024年にジャーナリストの布施祐仁氏が厚生省に情報公開請求をしたところ、乗船名簿を含む650点以上の資料が存在することが明らかになった。この問題は国会でもとりあげられ、政府は韓国政府に名簿を伝達すると答弁した。その後、名簿の(一部?)が韓国政府に伝達され、韓国政府は関係団体を集めて説明会を開催した。
今後、新資料の開示が進み、事件の真相が究明されることを期待したい。