2 抜粋改憲(1952)

1)改憲の経緯
 1950年5月30日に第二回国会議員選挙が行われたが、前回は選挙をボイコットした中間派が参加して多くの議席を獲得した。その結果、李承晩(イ・スンマン)大統領は院内の支持勢力を失い、大統領を国会が選出する制度の下では再選は絶望的な状況に追い込まれた。
 同年6月25日、38度線で突然戦端が開かれ、韓国軍は壊走し、大統領を始めとする韓国政府の要人らはソウル市民を置き去りにして漢江の橋を爆破して逃亡するありさまとなった。臨時首都とされた釜山で開かれた国会に李承晩大統領は大統領直接選挙制を中心とする改憲案を提案したが、1952年1月、大差で否決された。4月17日には野党が議院内閣制改憲案を提案し、これに対して与党側は前回否決されたものとほとんど同じ内容の直接選挙制改憲案を5月14日に提案した。政府は釜山、慶尚南道、全羅北道、全羅南道に戒厳令を宣布し、議院内閣制を主張する国会議員約50名を憲兵隊が連行し、うち一部は国際共産党関連の嫌疑で拘束するなどの強硬手段に訴え、副統領がこれに抗議して辞職する事態になった。その後も野党集会を政府の意を受けた暴力団が襲撃するなどの事態が続くなかで一部の議員から大統領直選制の政府提案と議院内閣制の野党提案の一部を抜粋してつなぎ合わせた改憲案が提案され、7月4日深夜に軍隊と警察が包囲する中で起立採決がおこなわれ、出席議員166人中163人の賛成で可決された。
 この改憲は上記の経緯から「抜粋改憲」と呼ばれるが、野党議員を暴力で脅迫して実現した改憲であり、事実上のクーデターであった。しかも憲法上改憲案は1ケ月の公告期間を要するにもかかわらずこれを無視しており、形式手続上も違憲であった。

2)改憲の内容
 実質的にはもっぱら大統領直接選挙制を目的とする改憲である。 すなわち、大統領・副統領を国民の直接選挙制に改め、改正前と同様に「各々」選挙することにした(53条)。
 一方で、国務委員、行政各部の長の任命について「国務総理の提請」を要するものとして国務総理の権限を強化し(69条、73条)、国務総理と国務委員の国会に対する連帯責任(70条)、民議院による国務院不信任決議による国務院総辞職(70条の2)等の規定が新設されるなど、野党の議院内閣制改憲案から「抜粋」した改正も行われた。また、国会は民議院、参議院の二院制とした(31条)。ただし第一共和国(李承晩政権)では参議院選挙が行われることはなかった。


    次へ  条文 目次 HOME