4 第二共和国憲法の成立(1960)

1)第二共和国憲法成立の経緯
 四捨五入改憲により多選が可能になった李承晩(イ・スンマン)は1956年5月の大統領選挙に立候補し三選された。選挙直前に民主党の大統領候補が急死したため、対立候補は進歩党の曺奉岩(チョ・ボンアム)候補のみであったが李承晩の得票率は約55%にとどまった。しかも副統領選では自由党の李起鳳(イ・キボン)候補が落選し、民主党の張勉(チャン・ミョン)候補が当選した。その後、張勉副統領狙撃事件、「進歩党事件」による曺奉岩の逮捕・処刑、政権に批判的であったカトリック系の京郷新聞の廃刊処分など、李承晩政権の独裁化を示す事件が続発した。
 1960年3月15日の大統領選挙では、またしても民主党の大統領候補者が選挙直前に死亡し、李承晩が単独候補となった。大規模な代理投票、票のすり替え、集計不正などの不正が行われた末、大統領には李承晩、副統領には自由党の李起鳳が当選したと発表された。野党は選挙無効を訴え、4月19日にはソウルで大規模なデモが発生して全国に広がり、警察の発砲により多数の学生・市民が死傷した。政権はこの事態を収拾することができず、李承晩は辞任してアメリカに亡命し、李起鳳一家はピストル自殺し、5月2日には許政(ホ・ジョン)臨時政府が成立した。
 国会は改憲後に国会議員選挙を行うことを決議し、新憲法案を作成して6月15日に国会で議決し、新憲法施行後の7月28日に解散した。
 このように、李承晩政権の崩壊の過程は一種の革命であったが、憲法改正手続としては従前からの国会が憲法上の手続にしたがって憲法改正を行い、法的連続性を確保する道を選んだのである。

2)第二共和国憲法の特徴
憲法各章の改正点の概要は下記の通りである。
① 前文
 第二共和国憲法は革命的な政治過程を経て成立し、憲法全体にわたる重大な改正であるにも関わらず、制憲憲法以来の前文をそのまま継承した。これは前項で触れた改正過程にも示されたように、憲法制定者が従来の憲法との連続性をあえて強調する意図によるものであると思われる。
②国民の権利義務
 居住移転の自由(10条)、通信の秘密(11条)、言論・出版・集会・結社の自由(13条)の個別の法律の留保がようやく廃止され、一般的な人権制限(「秩序維持と公共福利」)についても「自由と権利の本質的な内容を毀損してはな」らないとの規定が新設された。言論・出版に対する許可制・検閲制、集会・結社に対する許可制は禁止された(28条の2)。
 公務員の政治的中立と身分保障に関する規定を新設し(27条2項)、特に警察の政治的中立を保障するための機構を設置することにした(75条2項)。これらは警察が大統領と与党の私兵となった過去の反省にもとづくとともに、議院内閣制の前提となる職業公務員制を準備するものであった。
さらに議院内閣制の前提となる政党に憲法上の地位を与え、政党に対する国家保護を定める一方、民主的基本秩序に違背する政党に対する解散訴追の制度を定めた。(13条2項)
③ 統治機構
 大統領は国会(両院合同会議)の選挙で選出され(53条)、国家元首である(52条)。
 しかし、行政権は国務総理と国務委員で組織する国務院に属し、大統領は国務院の構成員ではない(68条)。国務総理の指名(69条)戒厳の宣布拒否(64条2項)を除いては、条約批准、宣戦・講和(59条)、財政上の緊急措置(57条)、赦免・減刑(63条)、戒厳(64条)、勲章その他栄誉の授与(65条)などの大統領の権限は全て国務会議の議決や国務総理・国務委員の副署が必要であり、第一共和国の大統領中心制とは異なり、議院内閣制政府に付属する儀礼的・象徴的大統領となった。
 国会は民議院と参議院の二院制であり(31条2項)、いくつかの点で衆議院が優位に立つ(39条2項、37条2項3項、68条、69条1項)。実際に参議院選挙が行われ、第二共和国は韓国史において唯一の二院制の経験となった。
 国務院は民議院に対して連帯責任を負う(68条)。国務総理の選任には民議院の同意を要し、2回にわたって民議院が同意しなかった場合には民議院が選挙する(69条1項)。国務総理と国務委員の過半数は国会議員でなければならない(同6項)。民議院が国務院不信任決議案を可決した場合には国務院は10日以内に民議院を解散しない限り総辞職しなければならない(71条)。これらは典型的な議院内閣制の統治機構といえる。
④ 司法
 大法院長と大法官は、裁判官の有資格者による選挙人団の選挙によって選任されることとなり(78条)、司法の独立が強化された。
 通常の裁判所の体系とは別に憲法裁判所を置き、違憲立法審査権、弾劾裁判、政党解散の裁判、大統領、大法院長、大法官の選挙に関する訴訟を行うことにした(第8章)。憲法裁判所は第一共和国の憲法委員会とは異なり常設の司法機関である。しかし、実際には憲法裁判所設置前に5・16クーデターが発生し、憲法裁判所が設置されることはなかった。

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