9 第五共和国憲法(1980)
1)第五共和国憲法制定の経緯
1972年12月23日、第四共和国憲法にしたがい、統一主体国民会議が朴正煕(パク・チョンヒ)大統領を選出した。立候補者は朴大統領のみで賛成2357票無効2票反対0票という結果であり、大統領選挙は朴大統領を選任する儀式に転落した。1973年のオイルショックにより韓国経済は停滞し、朴大統領の国民的人気の源泉であった経済成長に陰りが生じた。このなかで1973年8月に朴政権は金大中(キム・デジュン)拉致事件を引き起こし、日韓関係、日米関係も悪化する。そして1974年1月8日、改憲運動を禁止する緊急措置第1号を発令し、その後、改憲運動の禁止、民主青年学生総連盟の処断、高麗大学の休校などを内容とする9次にわたる緊急措置が乱発され、1979年10月26日に朴正煕大統領が殺害されるまで緊急措置が継続された。このような緊急措置権の濫用により立憲政治は崩壊し、1974年には民青学連事件と人革党事件(75年4月8日8人に死刑判決、翌日処刑)による血なまぐさい弾圧、1974?75年には東亜日報への広告掲載を妨害する言論弾圧事件を引き起こした。
1978年7月6日の大統領選挙では再び朴正煕大統領が当選したが、同年の国会議員選挙では与党民主共和党が68議席、野党新民党が61議席を獲得し、得票率は新民党が与党を上回る結果となり、民心が朴政権から離れたことを示した。朴政権はアメリカ政府への発言を口実に新民党党首金泳三(キム・ヨンサム)の議席?奪をはかり、1979年10月国会は金泳三の除名を決議した。金泳三の地元である釜山・馬山ではこれに抗議して大規模な抗議行動が広がった(釜馬抗争)。この事態に対する対応をめぐって政権内部で対立が激化し、ついに10月26日、金載圭(キム・チェギュ)中央情報部長は朴正煕大統領を殺害した。
朴大統領殺害の翌日に非常戒厳令が宣布され、外交官出身の崔圭夏(チェ・ギュハ)国務総理が大統領代行に就任し、12月に統一主体国民会議で大統領に選任された。崔政権は金大中らの民主的人士を復権させるが、軍内部では全斗煥(チョン・ドゥファン)らの中堅将校らが勢力を伸ばし、12月12日に軍内でクーデターを起こして軍の実権を掌握した。
年が明けると労働争議や学園民主化運動が活発化し、戒厳令の解除を求めて大規模な街頭デモが起こるが、5月17日軍部は金大中、金鍾泌(キム・ジョンピル)らを逮捕、金泳三を自宅軟禁し、政治活動停止、言論の検閲、大学の休校などを内容とする戒厳布告を発表した。光州では大学に派遣された空挺部隊と金大中の逮捕に抗議する学生の間に衝突が起こり、学生に市民が合流して大規模な民衆抗争に発展した。5月21日には空挺部隊が学生・市民に発砲し、市民らは武器庫を襲撃して武装し市街戦が始まった。戦闘は5月26日まで続き、200人近い死者と5000人近い負傷者、400人以上の行方不明者を出した。
8月に崔圭夏大統領は辞任し、全斗煥が統一主体国民会議で大統領に選出された。大統領に就任した全斗煥は9月29日に改憲案を公告し、国民投票で90%の賛成を得て可決された。
2) 第五共和国憲法の特徴
① 前文
「4.19義挙及び5.16革命の理念」との文言が抹消された。第五共和国が朴正煕政権の後継者であるとの内外の評価をかわし、学生運動に理念的正当性を与えることを避けようという意図によるものであると思われる。
② 統治機構
統一主体国民会議を廃止した。したがって統一主体国民会議が国会議員の一部を選出する制度も廃止され、国会議員は選挙区と比例代表制により選出されることになった。しかし、大統領については国民が選出した5000人以上の選挙人団が選挙することとして間接選挙制が維持された。大統領の任期は7年で重任は禁止され、大統領の任期延長又は重任変更のための憲法改正はその憲法改正提案当時の大統領については効力がない(129条2項)と規定し、憲法改正による永久執権の試みを防止した。大統領による国会解散制度は維持されたが、事由の明示、同一の事由による再度の解散の禁止など、一定の制限が加えられた。朴正煕大統領が濫用した緊急措置は非常措置と名称を変え、国会の事後承認を要件としたり、国会の在籍議員過半数による解除「建議」を「要求」に格上げするなど要件が厳格化された。
③ 総綱
「全ての権力は国民から生ずる」との文言が復活し、政党の運営に国家が資金補助することが明文で定められた。また、在外国民の国家保護、伝統文化の継承・発展、民族文化の育成に努力する国家の義務が新設された。
④ 国民の権利と義務
第四共和国憲法で挿入された個別の法律の留保は全て廃止され、一般的な人権制限についても「制限する場合にも自由と権利の本質的な内容を侵害することができない」との文言が復活した。
同じく第四共和国憲法で廃止された逮捕拘禁に関する適否審査請求権、自白原則の規定が復活し、無罪推定原則が明文で規定された。