Ⅰ 序説

1 主権免除とは

 主権免除とは、主権国家は他国の裁判権に従うことを免除されるという慣習国際法上の規則である。かつては主権平等の原則から導かれる絶対的な規則であるとされたが(絶対免除主義)、国家による商業行為の発展にともない、現在では主権行為には主権免除が適用されるが業務管理行為には適用されないと理解されている(制限免除主義、大法院1998.12.17判決、最高裁2006.7.12判決)。
 主権免除の範囲を定める条約として、1972年の欧州国家免除条約、2004年の国連国家免除条約があるが、前者は加盟国が8ケ国に過ぎず、後者は未発効である(2。また、日本を含む10ケ国に主権免除の範囲を定める国内法がある。このような国内法がない場合(後述の韓国を含む)には、主権免除を認めるか否かは慣習国際法に基づいて決定されることになる。

2 主権免除と戦後補償裁判

 しかし、戦争行為は典型的な主権行為であると理解されてきたこともあって、戦後補償裁判においては主権免除は越えがたい壁であると認識され、被害者の国の裁判所に加害国を被告とする訴訟が提起されることはほとんどなかった。
 例えば広島の原爆被爆者はアメリカ合衆国を被告とするのではなく、サンフランシスコ平和条約によりアメリカ合衆国に対する被爆者らの損害賠償請求権を日本政府が消滅させたとして日本国に補償請求をした(3(原爆裁判)。また、新日鉄・三菱重工に強制動員された韓国人被害者らは日本の裁判所においては企業と日本国を被告として賠償を請求していたが(4、韓国の裁判所に提訴するにあたって被告を企業に限定した(5

3 国際司法裁判所(ICJ)主権免除事件判決

 しかし、1990年代に至ってようやく欧州の各国でドイツを被告とする訴訟が提起され、ギリシャとイタリアでは原告が勝訴した。これに対しドイツはイタリアが主権免除を認めないのは国際法違反であるとして国際司法裁判所(ICJ)に提訴し、2012年2月3日のICJ判決(6はドイツの請求を認容した。
 この判決は当該事件に関する限定的な判断であるが、この判決によって戦争被害者が自国の裁判所に加害国を被告とする訴訟を提起することが全く不可能になったとか、国家間の一括支払協定により被害者の個人請求権が消滅することを認めたものであるなどの誤った理解が広まり、後述のように強制動員に関する新日鉄事件大法院判決(大法院2018年10月30日)の反対意見にも誤った趣旨で引用されている。

4 日本軍「慰安婦」被害者が日本国を被告として韓国で提訴

 一方、韓国では2015年と2016年に日本軍「慰安婦」被害者が日本を被告としてソウル中央地方法院に2件の訴訟を提起した(うち1件は調停から移行)。日本政府は訴状の受取りを拒否し、手続は膠着していたが、2019年4月に裁判所は公示送達の手続を行い、同5月に送達の効力が発生した。これに対し日本政府は応訴しないまま、「訴訟は却下されるべきである」と韓国政府に伝達した。管轄権の有無は当事者の主張に関わらず裁判所が職権で判断すべき事項であるから、今後日本政府の応訴のないまま韓国裁判所の管轄権の有無についての審理が進行すると思われる。(7

5 本稿の目的

 そこで、本稿ではヨーロッパの経験を踏まえ、韓国の「慰安婦」被害者が主権免除の壁を乗り越える可能性について検討する。
 

Ⅱ ヨーロッパの戦後補償裁判と主権免除

1 ドイツの補償制度から取り残された被害者(8

 ドイツは第2次世界大戦時の被害を「補償」の対象と「賠償」の対象に分類した。前者はユダヤ人虐殺に代表される人種、宗教、世界観、政治的反対を理由とする「ナチスの不法」による迫害の被害であり、「道義的責任を果たすため」に連邦補償法などの国内法を制定した。後者は武力紛争時の民間人虐殺や強制労働など一般戦争行為による被害であり、1953年のロンドン債務協定により、平和条約が締結されて賠償が最終的に解決されるときまで解決が猶予されたとして放置した。1990年9月、東西統一を前にドイツに関する最終 規定条約(いわゆる2+4条約)が締結されると、これをロンドン債務協定の猶予期間を終了させる平和条約であると認める裁判例も現れ、各国の被害者による賠償請求が再燃し、米国の裁判所におけるドイツ企業に対する集団訴訟を契機として2000年に「記憶・責任・未来」基金が発足した。しかし、同基金は戦争捕虜を対象外としており、ドイツ軍の捕虜となって移送され強制労働に従事したイタリア軍人収容者は当時本来受けるべきであった戦争捕虜としての待遇を否定されたにも関わらず、戦争捕虜であるという理由で基金の支給対象から排除された。(9
 このようにして多くの被害者が補償から取り残された。ドイツの裁判所に提訴した被害者は国際法を根拠とする請求は個人は国際法の主体ではないとして否定され、国内法による請求は戦時には一般不法行為法は適用されず補償国内法の要件にも該当しないとして否定された。

2 自国の裁判所への提訴

 そこで、自国の裁判所にドイツを被告として提訴する被害者の動きが始まった。ICJ判決の事実認定によればベルギー、スロベニア、ギリシャ、ポーランド、イタリア、フランス、セルビア、ブラジルの各国の裁判所にこのような訴訟が提起された(10。このうち大部分の訴訟は主権免除を理由に却下されたが、ギリシャとイタリアの国内裁判所では異なる展開となった。

3 ディストモ事件訴訟ギリシャ最高裁判決

 ギリシャでは、ドイツ占領下の1944年にドイツ軍がパルチザン部隊による攻撃への報復として無関係の民間人214人を虐殺したディストモ事件(11の被害者遺族がドイツに賠償を求めて1995年に一審裁判所に提訴した。ドイツは訴状の受取を拒否し出頭しなかったが、一審裁判所は主権免除を否定して訴訟手続を進め、1997年9月25日に原告らの請求を認容した。この段階に至ってドイツは応訴して上訴したが、2000年5月4日、ギリシャ最高裁判所は法廷地国領域内における不法行為には主権免除を適用する必要がないという不法行為例外(tort exception)を慣習国際法と認め、本件のような殺戮行為は武力紛争のカテゴリーには含まれず、強行規範に違反したドイツは主権免除を黙示的に放棄したとしてドイツの上告を棄却した。(12

4 フェッリーニ事件等イタリア破毀院判決

 イタリアでは、第2次大戦中にイタリアで捕えられてドイツで強制労働に従事したフェッリーニ氏が1998年にドイツに賠償を求めて提訴した。下級審は主権免除により却下したが、2004年3月11日、破毀院(最高裁判所)は国際犯罪には主権免除の適用はないとして原判決を破棄して一審に差し戻した。一審は時効により請求を棄却したが、控訴審で原告の 請求が認められ、破棄院で確定した。フェッリーニ事件差戻判決を知ったイタリア軍人収容者を含む多数の被害者は同種の訴訟をイタリア国内裁判所に提起し、1943年にチビテッラ村でドイツ軍が行った203人の民間人虐殺事件に関するナチス親衛隊員の刑事事件を審理していた軍事裁判所もドイツに対する損害賠償を請求する附帯私訴を認容し、これも破棄院で確定した。(13

5 ディストモ事件原告らによる強制執行

 一方、ギリシャで勝訴したディストモ事件原告らは法務大臣の不同意によりギリシャ国内での執行を妨げられ、ドイツでの執行や欧州人権裁判所への提訴を試みたが成功しなかった。そこで、2005年にイタリアでの執行の承認を請求して提訴し、2007年にフィレンツェ控訴裁判所はこれを認め、原告らはドイツがイタリア国内に所有する文化施設ヴィラ・ヴィゴーニに裁判上の抵当権を設定した。(14

Ⅲ ICJ主権免除事件(独対伊)

1 ドイツの提訴

 イタリアの訴訟手続で追い詰められたドイツは、2008年12月23日、イタリア裁判所による一連の主権免除否定はドイツに主権免除を与える慣習国際法上の義務に違反しているとして、イタリアの国際法違反の確認、ドイツの主権免除を侵害する決定を無効とする措置、将来の同種事件において主権免除を否定しない保証措置を求めてICJに提訴した。イタリアは欧州人権条約にもとづくICJの管轄権を認めて応訴し、ギリシャは非当事者として訴訟参加した。

2 裁判の争点

 ドイツの請求に対しイタリアは主に次の二つの抗弁を主張し、これが本件の主要な争点となった。

⑴ 不法行為例外(争点①)
 不法行為例外は主に外交官による交通事故などの処理の必要から生まれた主権免除の例外である。法廷地国の領域内における外国の不法行為による人身傷害及び財物毀損についての金銭賠償請求訴訟では主権免除を認めないという趣旨の国内判例が1960年代から蓄積され、主権免除の範囲を定める国内法を有する10ケ国のうち日本の対外国民事裁判権法第10条を含む9ケ国の法律と欧州国家免除条約第11条及び国連国家免除条約第12条にも同様の規定が採用された。
 イタリアは、この規則はすでに慣習国際法となっており、イタリア領内で行われたドイツ軍の行為についてイタリア裁判所がドイツに主権免除を適用する義務はないと主張した。これに対しドイツは、不法行為例外は未だ慣習国際法とはいえず、仮に慣習国際法であったとしても、軍隊の行為には主権免除を適用するという(例外の例外としての)慣習国際法が存在すると反論した。

⑵ 裁判を受ける権利(争点②)
 イタリアは、本件はドイツの不法行為が国際人道法に対する重大な違反であること、違反した規範が強行規範(ユス・コーゲンス)であること、そして国内裁判所が被害者が利用できる最後の救済手段であることから主権免除は適用されないと主張した。イタリアの主張する三つの要素をつなげる環は裁判を受ける権利である。イタリアは国連憲章、欧州人権条約、イタリア憲法により領域内において裁判を受ける権利を保障する義務を負う。特に、被害が強行規範に違反する重大な人権侵害であり、被害者が利用できる他の救済手段が存在しない場合には裁判を受ける権利を保障するために主権免除の適用を排除しなければならないというのがイタリアの主張である。(15ドイツはこれについてもそのような慣習国際法は成立していないと主張した。

3 判決(多数意見)の判断

 2012年2月3日、ICJは小和田恒所長をはじめとする12名の裁判官による多数意見で将来の保証を除くドイツの請求の大部分を認容した。争点①については、不法行為例外が慣習国際法であるか否かは判断せず、各国の国家実行(国内判例や国内法)や条約の文言等から、少なくとも武力紛争遂行過程での軍隊の行為については主権免除を適用するという慣習国際法が存在するとした。争点②については3つの要素を分解し、それぞれについて国家実行等の調査を根拠にイタリアの主張に沿う慣習国際法の存在を否定した。
 なお、イタリア出身のガヤ特任裁判官は争点①について、ソマリア出身のユフス裁判官とブラジル出身のカンサード・トリンダージ裁判官は主に争点②について反対意見を述べた。
 多数意見は、学説にほとんど配慮せず、各国の国家実行を調査して相対多数により慣習国際法を認定するという手法をとった。この手法によれば、発展段階の国際慣習法については常に否定的(保守的)な結論に達することになる。また、ユスフ裁判官も反対意見で指摘しているように、国家実行の調査自体がチェリー・ピッキング(結論のために都合の良い事例の抽出)であるとの批判もある。
 さらに、武力紛争の遂行過程における軍隊の行為については主権免除を適用するという慣習国際法が存在するかという点に判断を限定したのも多数意見の特徴である。その結果問題となっている人権侵害の深刻性はまったく判断要素から排除されることになった。

4 判決後のイタリアの対応

 ICJ判決を受けてイタリア破毀院は判例を変更してイタリア裁判所の管轄権を否定した。また国会も2013年1月、ICJ判決を受けいれるため、同種の事件が係属する裁判所に職権で管轄権の欠如を宣言することを義務づけ、確定判決の再審事由に管轄権の欠如を追加する法律を制定した。しかし、憲法裁判所は上記の法律はイタリア憲法が保障する裁判を受ける権利を侵害するものであって違憲であると判示した。(2014年10月22日イタリア憲法裁判所判決)(16

Ⅳ 日本軍「慰安婦」訴訟とICJ判決

1 ICJ判決の射程

 上記のように、ICJ判決は武力紛争遂行過程における軍隊の行為には主権免除を適用するという慣習国際法が存在するという一点について判断したものであり、戦争被害者が加害国に対して自国の裁判所に提訴することを一般的に否定したものではない。
しかも、韓国はICJの管轄受諾宣言をしていないし、紛争のICJへの付託を規定した欧州人権条約に加盟している独伊の場合とは異なり日韓の間には紛争をICJに付託する条約上の根拠がなく、将来的に日韓の戦後補償問題がICJで争われる可能性は少ない。また、ICJ規程第59条は「裁判所の裁判は、当事者間において且つその特定の事件に関してのみ拘束力を有する」と規定しており、この判決が非当事国である韓国における訴訟に直接効力を及ぼすものではない。その上、多数意見は国内判例などの国家実行の相対多数によって現時点での慣習国際法を認定したに過ぎず、今後の国際法の発展にともなってICJ判決の趣旨と異なる国内判例が現れることは想定内であると言える。
ただし、ICJ判決はそこで展開された主張や論理を含めて慣習国際法を認定するうえで重要な資料となるから、韓国の裁判所がこれを全く無視することはできない。一方で、日本軍「慰安婦」被害者をめぐる事実関係の下ではICJ判決のケースとは別の規則が適用されるとすれば、その規則に関する慣習国際法を探求する必要がある。仮に安定的な慣習国際法が見いだせない場合にはいわゆるグレーゾーンとして国内裁判所がその権限内において法と条理にしたがって決定できることになるであろう(17
 そこで、韓国と日本をめぐる事実関係の下でICJ判決の論理を再検討する必要がある。

2 不法行為例外(争点①)と日本軍「慰安婦」訴訟

 ICJ判決は不法行為例外について判断しなかったが、前記のように多くの国の裁判例、国内法、条約がこの規則を認めており、これが慣習国際法であることは否定しがたいであろう。特に日本の対外国民事裁判権法第10条が不法行為例外を採用しており、韓国が日本国内で不法行為により人身や財物に損害を与え、損害賠償請求訴訟の被告となった場合には主権免除が否定されることになるから、相互主義的観点からも韓国裁判所は不法行為例外を認めると思われる。(18
 そして日本軍「慰安婦」被害者に対する加害行為の一部(欺罔又は強制による連行)は多くの場合韓国の領域内を起点として行われており、法廷地国領域内の不法行為である。(19
 そこで、ICJ判決の認定した「武力紛争遂行過程における」「国家の軍隊による行為」には主権免除が適用されるという慣習国際法(20が問題となる。領域国の同意なく侵入した外国軍隊の行為について主権免除を認めることの合理性についてはガヤ裁判官の反対意見(21を始めとして多くの批判があるが、一般的には「武力紛争時には予期し難い損害が発生し、通常の司法手続では処理不可能である」ことが肯定論の根拠であろう(22。そうすると「武力紛争の遂行過程」とは法的概念ではなく事実的概念であり(23、複数の武装勢力が実在して武力衝突が発生している事実上の状態を意味すると考えられる。そして多くの被害者が連行された1930〜40年代の朝鮮半島には国境地帯を除いて日本軍に敵対する武装勢力は存在しなかったから、イタリアのケースとは異なり、この意味における「武力紛争の遂行過程」であるとは言えない。
 したがって仮に争点①についてICJ判決多数意見の立場に立つとしても、韓国の日本軍「慰安婦」被害者のケースには多数意見が認定した慣習国際法は適用されず、不法行為例外の適用により主権免除を否定することが可能である。

3 裁判を受ける権利(争点②)と日本軍「慰安婦」訴訟

⑴ 裁判を受ける権利保障の義務
 国際的に人権を保障する手段として、各種の人権条約には国家通報、個人通報、政府報告制度などが規定されている。このうち国家通報制度は現状では実質的に機能していない。個人通報制度の適用には締約国の特別の受諾宣言が必要であり、日本は一切の個人通報制度を受諾していない。政府報告制度は一般的な問題点の報告と勧告にとどまり、個別の人権侵害を救済するものではない。しかもアジアには欧州人権裁判所、米州人権裁判所、アフリカ人権裁判所のような地域的国際人権裁判所も存在しない。そうすると、特にアジアにおいて人権を実効的に保障していくためには国内裁判所における裁判を受ける権利を徹底的に保障していくしかない。
 そして国際人権規約(自由権規約)第14条第1項には欧州人権条約第6条第1項と類似の規定があり、韓国も国連憲章、国際人権規約、韓国憲法によりイタリアと同様に裁判を受ける権利を保障する義務を負っている。
 しかも、憲法裁判所2011年8月30日決定は日本軍「慰安婦」被害者らに対する韓国政府の「最も根本的な保護義務」を認め(24、その根拠のひとつである憲法10条は「すべての国家機関を拘束」すると判示しているから、裁判所自体が被害者に対する司法保護を実現する義務を負っているといえる。

⑵ 裁判を受ける権利と主権免除の国際法
 ICJの多数意見による形式的検討では無視されているが、欧州人権裁判所Weite & Kennedy事件判決(1999年)では、欧州宇宙機関の裁判権免除について、裁判を受ける権利は、その権利を実効的に保護するための合理的な代替手段を当事者が利用できた場合にのみ制約することができると判示し(25、その後ベルギー、フランスなどで当事者が利用することができた手段を具体的に検討した上で国際機構の免除を否定する国内判例がみられるようになった。(26
 欧州人権裁判所は国家に関する事件については国際機構に関する事件とは異なり主権免除による裁判を受ける権利の制約を広く認めているが(例えば2001年アル・アドサニ事件)、これは通常の主権国家は当事者が利用できる司法制度を備えていることを前提にしているからである。国際機構の主権免除は慣習国際法ではなく専ら条約を根拠とすること、国家のように相互の関係ではないことなど、国家の場合とは相違点があるが、裁判を受ける権利と主権免除の調整についての論理は本質的に異なることはない(27。むしろ国際機構と雇用契約を締結した国際公務員の労働問題と、人道に反する罪の被害者として生命や人格を侵害された者とでは、明らかに後者の要保護性が高いであろう。
 また、これもICJ多数意見では「他国の立法に例を見ない」として無視されたが(28、米国では1996年に外国主権免除法を改正し、米国政府がテロ支援国家と認定した国家に対しては拷問や超法規的殺害などの行為については主権免除を認めないことにした(29。行政の判断により司法の管轄権が決定されるというシステムには問題があるが、仮にこの法律が国際法上正当化されるとすれば、「テロ支援国家」にはテロ被害者を救済する司法制度が通常備えられていないということを理由とする他はないであろう。(30
 これらの国際判例や国家実行は、主権国家に当事者が利用できる司法制度が備え られていないという例外的な場合については主権免除の否定が許されるという解釈が可能であることを示している。ただし、この問題について安定した慣習国際法が存在するとは言えず、前記の「グレーゾーン」に属する分野として国内裁判所に委ねられていると考えられる。

⑶ 外国人被害者の裁判利用を拒否した2007.4.27最高裁判決
 この点において、中国人「慰安婦」事件と西松建設中国人強制連行・強制労働訴訟についての最高裁判決(31は重要である。この判決で最高裁は、個人の請求権の解決を民事裁判上の権利行使に委ねると将来予測困難な混乱を招き、平和条約の目的達成の妨げとなるおそれがあるので、個人の請求権について民事裁判上の権利行使することはできないことにするというのが「サンフランシスコ平和条約の枠組み」であり、日中共同声明もこの枠組みの中にあるため、同第5項(32によって原告らの請求権は行使できなくなったとして被害者らの請求を棄却した(33。さらに最高裁は「ここでいう請求権の『放棄』とは,請求権を実体的に消滅させることまでを意味するものではなく、当該請求権に基づいて裁判上訴求する権能を失わせるにとどまるものと解するのが相当である。したがって個別具体的な請求権について、その内容等にかんがみ、債務者側において任意の自発的な対応をすることは妨げられない。」と判示した。
 その後中国人被害者を原告とする全ての訴訟は同じ理由で棄却された。そして、文言上「国民が」放棄したと記載されていない日中共同声明によって中国国民が裁判上訴求する権能を失ったとする以上、「国民の」請求権等について「完全かつ最終的に解決された」との文言のある日韓請求権協定に同じ論理が適用されるのは不可避であり、韓国国民の請求も同じ理由で棄却される判決が続いた(34。今後韓国の日本軍「慰安婦」被害者が改めて日本で訴訟を提起しても、この趣旨の判決が出されることは確実である。
 すなわち最高裁判所は実体法を適用して外国人戦争被害者の法的権利を否定したのではなく、原告の法的権利の有無にかかわらず、日本では外国人戦争被害者には裁判上訴求する権能がないと宣言したのである。裁判を受ける権利により保障されるべき内容が形式的な裁判の利用で足りるのか、実質的な保障の実現を含むのかについては議論があるが(35、最高裁は外国人被害者の裁判の利用すら拒否していることになる。

⑷ そうすると日本は外国人戦争被害者にとって主権国家に当事者が利用できる司法制度が備えられていないという例外的な場合に該当することになり、韓国裁判所は裁判を受ける権利保障や前記の保護義務に照らして主権免除を否定すべきである。(36

4 大法院判決反対意見によるICJ判決の誤った引用

 ところで、前記の2018年10月30日韓国大法院判決の反対意見は、日韓請求権協定のような一括処理協定によって国家が相手国から補償・賠償を受けた場合は、この資金が別の目的に使用されたとしても個人の請求権が消滅するという見解の根拠としてこの判決を引用しているが、完全に誤った引用である。確かにICJ判決には一括支払資金が他の目的に利用された場合、そのことが金銭の分配を受けなかった個人が加害国に請求する根拠となるのかは疑問であるとの趣旨の記載がある(102項)。しかしこれは政府間交渉による補償の成否についての国内裁判所の判断能力という傍論部分における感想めいた記載にすぎない(37。逆に多数意見は結論部分(108項)において「平和条約77条4項及び1961年の協定の条項はイタリアにおける手続の主題についての拘束力ある請求権放棄条項であるというドイツの主張の当否についても判断する必要がない」「免除の問題に関する裁判所の判断はドイツが責任を負うか否かの問題について影響を与えない」と明示しており、この判決が一括処理協定による個人請求権の消滅については何も判断していないことは明白である。

5 主権免除の法の遡及効否定論について

 なお、ICJ主権免除事件でドイツは現在の法ではなく不法行為時の主権免除の法を適用すべきであると主張した(判決はこれを否定)が、日本の研究者の中には同様の解釈によって戦後補償訴訟に対する主権免除否定を防止すべきであるとの主張がある。(38
 しかし上記の主張はその根拠自体が説得的でないうえ(39、日本の対外国民事裁判権法附則第2項は裁判手続の申立時を基準として遡及効を制限しているから、このような主張も相互主義の観点から認められ難いであろう。

Ⅴ まとめ

 以上のように、韓国の日本軍「慰安婦」被害者が提起した訴訟についてはICJ判決多数意見が認定した慣習国際法を前提としても不法行為例外による主権免除否定が可能である。また、韓国憲法裁判所の認めた保護義務、最高裁判所判決による裁判利用の拒否に照らし、裁判を受ける権利保障のために主権免除を否定すべきであると考えられる。
 
脚注
  1. ^本稿は2018年8月13日にソウル大学で行われた「日本軍『慰安婦』問題と『責任』」シンポジウム(韓国女性家族部、慶北大学法学研究院主催)、同年12月14日ソウルの東北アジア歴史財団で行われた「日本軍『慰安婦』問題と歴史正義の関係」シンポジウム(同財団主催)の両シンポジウムの発表原稿を併せ、更に若干の加筆をして2019年5月に作成した。
  2. ^30ケ国の批准で発効するが、現在の批准国は13ケ国である。
  3. ^東京地裁1963年12月7日判決参照
  4. ^大阪地裁2001年3月27日判決、広島地裁1995年3月25日判決参照
  5. ^ ソウル中央地方法院2008年4月3日判決、釜山地方法院2007年2月2日判決等参照
  6. ^ http://www.icj-cij.org/en/case/143に判決を含む訴訟資料の仏語・英語原文。http://justice.skr.jp/に判決(多数意見、反対意見、個別意見)の日本語・韓国語拙訳
  7. ^ 日本政府が応訴しない以上、管轄権が認められれば原告勝訴判決が宣告されることになるであろう。
  8. ^ 以下、ドイツの補償制度及び同国における訴訟の経緯については、山田敏之 「ドイツの補償制度」国立国会図書館 外国の立法 34巻3・4号(1996)、葛谷彩 「ナチス時代の強制労働者補償問題」愛知教育大学地域社会システム講座社会科学論集 (49)(2011)、山手治之「ドイツ占領軍の違法行為に対するギリシャ国民の損害賠償請求訴訟⑴」京都学園法学2005年第2・3号、同⑵京都学園法学2006年第3号
  9. ^ Iこの措置についてはICJ多数意見も「驚くべきことであり、遺憾である」と述べている(99項)。
  10. ^ ICJ多数意見73,74項<
  11. ^ ICJカンサード・トリンダージ反対意見185〜186項
  12. ^前掲山手⑴
  13. ^ICJ多数意見27~29項
  14. ^ICJ多数意見30項以下、前掲山手⑴
  15. ^ICJユスフ反対意見7~9項
  16. ^https://www.cortecostituzionale.it/documenti/download/doc/recent_judgments/S238_2013_en.pdfに英語訳、http://justice.skr.jp/に日本語・韓国語拙訳
  17. ^ICJユスフ反対意見47~48項、ガヤ反対意見9項がグレーゾーンについて言及している。
  18. ^ソウル民事地方裁判所1994.6.22判決は米国を被告とする契約上の過失による損害賠償事件について、米国の外国主権免除法が商業活動や米国内の不法行為を免除から除外していること、実際に米国で大韓民国を被告とした民事訴訟において免除を否定した例があることを理由に免除を否定した。
  19. ^ 多くの韓国判例は強制動員事件について強制動員が開始された韓国が不法行為地であると判示している(新日鉄住金事件大法院2012年5月24日判決など)
  20. ^ICJ多数意見78項
  21. ^ICJガヤ反対意見第9項
  22. ^例えば、坂巻静佳 「国際司法裁判所『国家の裁判権免除』事件 判決の射程と意義」国際法研究 創刊第1号(2013)
  23. ^ したがって、日本による支配が強占であるという法律的議論とは関係がない。
  24. ^「例えわが憲法が制定される前の事といえども、国家が国民の安全と生命を保護すべきであるという最も基本的な義務を遂行できなかった日帝強制占領期に、日本軍慰安婦として強制動員され、人間の尊厳と価値が抹殺された状態で長期間悲劇的な生活を営まざるを得なかった被害者らの毀損された人間の尊厳と価値を回復させる義務は、大韓民国臨時政府の法統を継承した現在の政府が国民に対して負う最も根本的な保護義務に属するものである。」
  25. ^「ICJユスフ反対意見第29項
  26. ^ 黒神直純「国際機構の免除と国際公務員の身分保障」信山社「普遍的国際社会への法の挑戦」(2013)所収641頁
  27. ^欧州人権裁判所は2013年に国連の平和維持活動に関するStichting Mothers of Srebrenica事件においてICJ主権免除判決を引用し、上記の代替性テストを行わずに主権免除を肯定した。Weite & Kennedy事件との矛盾が指摘されるが、逆に裁判を受ける権利との関係において国際機構と国家が本質的に異なることがないことを示したともいえるだろう。同事件につき、岡田陽平「国際機構の裁判権免除と裁判を受ける権利」国際協力論集 24巻2号(2017)、水島朋則「国際司法裁判所の主権免除事件判決による現代国際法の発展」三省堂「国際裁判と現代国際法の展開」(2014)所収288頁
  28. ^ICJ多数意見88項
  29. ^アメリカ連邦地裁は、朝鮮民主主義人民共和国で拘束され、帰国後に死亡した米国人学生、オットー・ワームビア氏の遺族が同国に賠償を求めた事件について、この規定に基づいて主権免除を否定して審理を進め、2018年12月24日、約5億ドルの賠償を命ずる判決を宣告した。
  30. ^日本では対外国民事裁判権法の立案者解釈として、未承認国には同法が適用されない(主権免除を認めない)との解釈が示されており(「逐条解説 対外国民事裁判権法」14頁)、2018年8月にいわゆる脱北者らが朝鮮民主主義人民共和国に対して帰国事業による損害賠償として5億円を請求して提訴した事件が東京地方裁判所に係属している。これについても上記のアメリカ法と類似の問題を指摘することができる。
  31. ^判例タイムズ1240号121頁、判例時報1969号28頁
  32. ^「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。」
  33. ^これは締結者の意思や歴史的事実にも反し、ただ日本における戦後補償訴訟を終らせることだけを目的とした政治的判決である。阿部浩己「サンフランシスコ平和条約と司法にアクセスする権利」神奈川法学第46巻2・3合併号(2013)は裁判を受ける権利の観点から判決を批判している。小畑郁「西松建設事件」三省堂「国際法基本判例50」所収は判決の結論には肯定的だが、最高裁の論理は「後知恵の力業」であると評している。
  34. ^名古屋高裁2007年5月31日判決(三菱名古屋朝鮮女子勤労挺身隊訴訟、判例タイムズ1210号186頁)、判例時報1894号44頁)、富山地裁2007年9月19日判決・名古屋高裁金沢支部2010年3月8日判決(いずれも不二越勤労挺身隊二次訴訟)
  35. ^ICJカンサード・ドリンダージ反対意見221項
  36. ^不法行為例外による主権免除否定と裁判を受ける権利保障のための主権免除否定は論理的にも歴史的な形成過程にも相関性がなく、並列して主張することができる。ただし不法行為例外によれば法廷地国は主権免除を「否定することができる」のに対し、裁判を受ける権利保障のためには主権免除を「否定しなければならない」ことになるであろう。 また、不法行為例外の適用は法廷地国領域内での不法行為に限定されるのが一般的であり、法廷地国の領域外から領域外に連行された被害者への適用には困難がある。ICJにおいてもこのような被害者は争点①の対象外であるとイタリアは述べている。
  37. ^審理の対象外の問題についてこのような記載をすることはきわめて不適切である。
  38. ^水島朋則 「主権免除の国際法」 名古屋大学出版会(2012)280頁以下
  39. ^2次大戦中の人権侵害を「はるか遠い昔の出来事」と繰り返し表現した上で、10ケ国の主権免除の国内法をのうち3ケ国は行為時を基準とする不遡及を定め、不遡及に関する規程を欠く5ケ国(ここでは言及されていないが日本を含む残る2ヶ国は申立時を基準とする不遡及を定めている)のうちカナダには行為時を基準として不遡及を判断したオハイオ高等裁判所の裁判例があり、逆に積極的に遡及効を認めた米国の連邦最高裁判決は他国に例がないので重視しないことも認められるので、「遡及適用を否定する国際法が存在すると言える可能性がある」と言う。

  40. 参考文献
    脚注に記したもののほか、下記の文献を参考にした。また、日弁連人権委員会日韓共同行動特別部会主催の研究会において阿部浩己先生から貴重な助言をいただいた。
    坂巻静佳「重大な人権侵害行為に対する国家免除否定論の展開」社会科学研究60巻2号(2009)
    中野俊一郎「国家免除原則と外国判決の承認」信山社「EUの国際民事訴訟法判例Ⅱ」(2013)所収
    濱本正太郎「裁判を受ける権利・強行規範と主権免除」 同上所収
    飛澤知行 「逐条解説 対外国民事裁判権法」 商事法務(2009)
    田村光彰「ナチス・ドイツの強制労働と戦後処理」社会評論社(2006)
    吉田邦彦 「ホロコースト補償訴訟の遺産」有斐閣 「日本民法学の新たな時代」(2015)所収
    清野幾久子「ドイツ戦後補償の法理」 法律論叢第70巻5・6号(1998)
    広渡清吾 「ドイツにおける戦後責任と戦後補償」朝日選書 「戦争責任・戦後責任-日本とドイツはどう違うか」(1994)所収
    ライナー・ホフマン 山手治之訳 「戦争被害者に対する補償」立命館法学306号(2006)
    田近肇 「イタリア憲法裁判所の制度と運用」 岡山大学法学会雑誌第62巻第4号(2013)
    申恵丰 高木喜孝 永野貫太郎 「戦後補償と国際人道法」明石書店(2005)
    山本草二「国際法」有斐閣(1985)



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