1. 私は裁判所が到達した結論とその理由の多くの部分に賛同する。私がこの個別意見を提出するのは、国際法規則がある国を外国の裁判所の管轄権から免除するか否かは、国際法と国際法秩序の原則にいかに強固に依拠しているかを強調するためである。その強調は、本件判決の国家実行に関する徹底的で説得的な議論を補足することを意図するものである。

2. 法のこの分野で機能する国際法の基本原則は、国連憲章第2条の冒頭で宣言された国家の主権平等の原則である。この原則を精緻化するものとして採択された、1970年の友好関係原則宣言(総会決議2625 (XXV))では、全ての国家は平等な権利と義務を有し、法律的に平等であるとされた。当然、主権免除が問題となる事件では、その原則とそこから発生する権利と義務が、事件が提起された法廷地国と、被告または被告にされようとして外国の二つの国に適用される。仮に個人または法人を被告として提訴されたのであれば裁判所が管轄権を有する事実関係の場合に、なぜ被告が外国である場合には異なる扱いとなるのか?一方で、主権平等と外国の独立の原則は主権免除を支持する。平等な一方は他の一方に対して管轄権を行使できない。

3. 二つの命題はどのようにして調和させるべきか?その解答は、大部分が本件の判決や学術上の著作で検討された、国内裁判所の判断、条約や法律の改正、外交手続、そこに至る交渉の過程、その他の国家実行の中に見出される。それらの解答は現在も過去も訴訟で争われた行為の性質に特に注意を払ってきた。大まかに言えば、問題の行為が公的性質の行為、すなわち国家主権の実行とみるべき行為か、それとも私的性質の行為、すなわち国内法上他の私人の行為と区別できない行為か? 前者の場合、外国の主権尊重の必要性、互恵主義の思想、国際関係のリスクの可能性に重点が置かれ、主権免除は肯定される。後者の場合、外国の行為とその他の私人の行為の国内法上の類似性と(非国家である)訴訟の相手方に関する権利及び義務から主権免除の否定が導かれる。それは例えば、行為が商業又は取引的性格であったり、法廷地国の領域でおこなわれた国内法上の不法行為、違法行為であったり、国内に存在する財物に関する行為である場合である。これらの要素に基づく解答は、時とともに主権免除を制限する方向に変化してきたし、今後も疑いなく変化して行くであろう。本件ではイタリアはその国内裁判所が採用した主権免除を制限する立場を擁護した。ドイツはこれと反対の主張をした。

4. それらの問題は200年前から現れ始めた。それを論証するために、私は19世紀の二つ の判決と万国国際法学会の決議をとりあげる。多くの例からそれらを選択したのは、それらが私が指摘してきた原則その他の要素に焦点を当てているからである。それらは、20世紀にまで絶対免除主義に固執したとされることの多い英米法の伝統に属する法律家らが、他の系統の法律家らと同様に早くから前記の要素のバランスを認識していたことを示している。そして彼らはその法について、国内裁判所が外国に対して管轄権を行使する分野と主権免除によりそれを行使できない分野という、有益な二分類を行った。私は当裁判所及びその前任者らが国内裁判所の判例を引用するのは異例であることをもちろん認識している。しかし、本件の判決に示されたように、当裁判所は適切にもそれらの判決に重要な役割を与えた。法のこの分野においては、国内裁判所の判断は関係国の反発の有無にかかわらず、多くの国家実行の実例を提供している。その上、原則に論及したこれらの判決の論理は非常に価値がある。

5. アメリカ合衆国最高裁判所のマーシャル長官が200年前に述べた言葉から始めよう。スクーナー船エクスチェンジ号対マックファドン事件(1812)において、彼は次のように述べた。

「裁判所の管轄権は国家が独立した主権権力として有する管轄権の一部である。その領域内における国家の管轄権は必然的に独占的かつ絶対的である。それは自ら課したものでない限り、いかなる制限にも服さない。外部の権力に由来するいかなる制限も、その制限の大きさにおいて主権を縮小させ、制限の源泉となった権力に同じ大きさの権力を付与することになる。」

彼は続いて領域国の同意の例として彼が言及したいくつかのケースについて、共通の慣行やその慣行によって生じた共通の意見によって検証した。 60年後、英国の裁判官であるロバート・フィルモア卿はエジプト総督による主権免除の要求を拒否した。彼は裁判所の管轄権からの元首の免除について次のように考察した。

「この特権の基礎となる根拠の検討から始めよう。一般法体系の原則によれば、国家の域内にある人間と財産はその国の裁判所の管轄権に属する。…外国元首とその代理人はその身体または財産に関し、少なくともその財産が彼の地位の尊厳に関するものであり、彼の公的機能の実行である場合には、この原則の効果から絶対的に除外される。いかなる根拠によってこの例外が許容されるのか?この例外は彼がその統治権により主権国家に代わって何らかの絶対的権利を有していることによるものではない。彼についてそのような権利を認める事は領土主権の権利と両立しないであろう。…真の根拠は、外国主権の代表者を自由と尊厳のために免責し、訴訟の提起による困難な状況の表面化を避けるため、国内裁判権からの例外を普遍的に承認している独立国の 合意と慣習である。」(The Charkieh号事件 (1873))

共通の慣習とそこから生じた共通の意見についての裁判官らによる論及は、領域国の同意はフィクションであると見られるようになったことを示唆している。法の発展に関する私の理解によれば、並立する主権の調和は同意の思想に根拠を置くことをやめ、上記のような他の要素、特に問題となる行為の性質に重点を置くようになった。(黙示の)同意と原則という要素の組み合わせは、領域主権が外国の主権に優先する場合に論及した二つの判決の傍論部分に現れる。

6. マーシャル長官は彼が全く異なる状況であると理解しているケースを考察した。それは元首の個人財産に関する状況である。彼は、元首が外国で財産を取得する場合、「その財産を領域国の管轄権に従わせる。すなわち、彼はその限りでは元首としての地位を捨て、私的な個人とみなされることになる」。または、主権、平等、独立、尊厳という要素は後退し、一般的には黙示の外国の同意と前記の後退が相まって、主権免除が否定されるように見えると述べた。同様にロバート・フィルモア卿は、訴訟で問題となっている船舶が「通常の貿易のために雇われ、商船団と呼ばれるものに属している」事実に注目した。彼は次のように述べた。

「この問題についての国際法の目的は、他の場合と同様に、不正義を実行することでも正当な要求の執行を妨げることでもなく、政府間交渉の代わりをすることである。それらが緩慢で曖昧であるという問題があるにも関わらず、裁判の通常の利用が外国国家の代表者の尊厳を傷つけ、機能に支障を与える場合に、訴訟においてこのような不都合の回避を具体化するためには、国際法については個人の尊厳と主権者の利便を尊重することにより、国内法についてはその主題についての裁判を遂行することによって、その目的が達成される。

主権免除の一般規則に対する普遍的に承認された例外を検証すると、この命題の真実性が証明される。例えば不動産には裁判からの免除が適用されないことが認められている。その理由の一つは、このような財産の所有者は財産を保有する国の司法制度を受け容れているから、免除の許容による国家の一般的不都合が、他の場合に免除の根拠となる利点に優先するということであろう。もう1つの理由は…訴訟の進行のために元首に出頭を求める必要がなく、そのような個人財産が彼の職務の正当な執行の必要条件であって何らかの職務の妨害となるということもないことである。免除は前記の2つの理由及び不動産の取得は特権の放棄を意味するという第3の理由の、3つのうちの1つの理由によってのみ否定される。」

7. 二つのうち最初の段落は、外国の実体的義務とそれを遂行又は執行するための手続的又は制度的方法に重要な焦点を当て、ある場合には「正当な要求」は訴訟手続で追求され、他の場合には可能な方法は国家間交渉であると述べている。権利と手続に関するその区別は一般法、特に本件において重要である(判決第III(3)参照)。第2段落では領域主権が優先する他の例を挙げ、その結論にいたる理由を述べている。

8. 万国国際法学会は1891年に外国、元首、首長に対する訴訟における裁判所の管轄権に関する国際規則草案のなかで、外国に対する裁判所の管轄権を行使が許容される6つの状況を網羅的に列挙した。その中には法廷地国領内で行われた不法行為又は準不法行為による損害に対する訴訟が含まれていた(第4条(6))。その規定の直後に、他の事項と並んで主権行為に対する訴訟の禁止が規定された(第5条)。1世紀後、同学会がイアン・ブラウンリーを報告者として採択した裁判権と執行権に関する主権免除についての決議(「管轄権及び強制の問題に関する国家免除についての現代的課題(1991)」)でも類似のアプローチを見ることができる。法廷地国の裁判所その他の機関が管轄権をもつ場合の9つの判断基準と、管轄権を持たない場合の5つの判断基準が示された。前者の中には「法廷地国の国内管轄の中で実行された外国の行為による人間の死傷又は有体財産の喪失又は損傷」に関する訴訟が含まれている(第2条(2) (e))。管轄権を否定する後者の基準には(1)「紛争の内容の事実と被告国家の処理の国際公法における正当性の関係 」(2)「法廷地国の機関は被告国家の防衛、安保政策の内容や実行について審査する権限を有すると見なされてはならない」が含まれている(第2条(3) (d))。

9. 同決議は国際法委員会が2004年国連条約の基礎となった主権免除草案を完成したわずか数週間後に採択された。1991年に同委員会は、立法、行政行為、判例、条約その他多くの先例を含む多くの国家実行の調査に基づいて1980年に採択した注釈は今も一般的に適用できることを再確認した。「主権免除の合理的根拠」と題する注釈は下記のように述べた。

「主権免除の原則を支持する最も説得的な議論は、国家の慣習と実行及び国家の主権、独立、平等、尊厳に関する表現によって証明された国際法に見出される。それらの全ての観念は一体に融合して主権免除の強固な国際法的基礎をなしている。主権免除は主権に由来する。二つの対等な当事者の一方が他方に対して主権意思や権威を行使することはできない。“par in parem imperium non habet”(対等な者は対等な者に対して統治権をもたない)。」 (国際法委員会年報1998 草案第6条注釈第55項、同1991第5条注釈)

10. この問題に関する作業を通じて、委員会は19世紀初頭に現れた「公」と「私」と簡潔 に表現される区別を維持した。前者の分野では、主権平等・独立・互恵主義・尊厳の原則、国際関係に起こり得るリスク、必要な場合には領域国による領域主権の放棄への(黙示的)同意が優先される。後者においては、その国の法制度の中で外国は実質的には私人であり、その意思により、また当然に、その国の法と司法制度に従う。双方の区別は、現在は国連主権免除条約第3部の「免除を援用することができない裁判手続」と題する規定となっている国際法委員会の8カ条の条項草案により定められた。草案の4個の条項に含まれていた「国家は裁判権の実行に同意したものとみなされる」との文言は、条約では「国家は裁判権からの免除を援用することができない」と改められた(国際法委員会年報1991,第10条注釈)。外国による黙示または擬制の同意は消え去った。領域主権の支持は一般法の宣言 に根拠を置くことになった。

11. 原則に対するこのような考察に留意しつつ、イタリア裁判所に提起された請求の核心となる事実を検討しよう。1943年9月からイタリアが解放される1945年5月まで、ドイツ軍隊はイタリアの人々に筆舌に尽くし難い苦痛を与えた。ドイツはそれらの事実とその違法性を認め、それらの恐るべき出来事に対する完全な責任を受け容れると述べた。これらの事実に基づいてイタリア裁判所はドイツに対する裁判権を実行できるのか?主権平等の論争はどのように解決されるべきなのか?

12. イタリアによって示された一つの解答は不法行為例外である。イタリアの主張の通り、その原則は少なくとも学説上は、ずっと以前から認められていた。そして本件で問題となっている行為は、国際法においても、想像しうる限りの国内法制度においても明白に違法である。しかし、その原則はいかなる範囲に及ぶのか?万国国際法学会の1891年と1991年の決議は領域的要素、すなわち問題の違法行為が法廷地国家の領域または国内管轄権の中で行われることを要求している(上記第8項参照)。同じ要素が2004年国連条約第12条に更に詳細に規定されている。

「いずれの国も、人の死亡若しくは身体の傷害又は有体財産の損傷若しくは滅失が自国の責めに帰するとされる作為又は不作為によって生じた場合において、当該作為又は不作為の全部又は一部が他の国の領域内で行われ、かつ、当該作為又は不作為を行った者が当該作為又は不作為を行った時点において当該他の国の領域内に所在していたときは、当該人の死亡若しくは身体の傷害又は有体財産の損傷若しくは滅失に対する金銭によるてん補に関する裁判手続において、それについて管轄権を有する当該他の国の裁判所の裁判権からの免除を援用することができない。ただし、関係国間で別段の合意をする場合は、この限りでない。」

13. 第12条と国際法委員会注釈で専ら強調されていることは、その私的性質と並んで裁判 手続の地域的性質である。国内法上の補償請求権の存在、行為者が行為時に領域内に存在したこと、行為の一部または全部が領域内で行われたことを要する。委員会によれば、免除例外は「関係国が不法行為地法に従うべき事件や状況下でのみ適用される」。国内裁判所が最も利便がよく、免除否定の規則は保険会社(大部分の傷害と損害は保険でカバーされるであろう)が主権免除の背後に隠れる可能性を防止することができる。(国際法委員会年報1991 第12条注釈)。第12条に規定された内容は慣習国際法を反映したものと思われ、その法的根拠は他の場所で(本件ではイタリア外で)行われた違法・不法行為には明らかに適用されない。

14. 委員会は政治的暗殺(外国の指示または承認によるものを指すと思われる)もカバーされるであろうと認めている。その行為がある意味で非常に公的、政治的性格と言えるにも関わらず、そのような効果が及ぶのは、それが同時に民事責任と国内裁判所における裁判手続の原因となる重大な国内法違反だからであると理解することができる。マーシャル長官が述べた主権国家の裁判所の独占的な裁判権という出発点に戻ると、その国の法に対する違反について、主権平等、独立、尊厳、互恵主義、国際関係におけるリスクの可能性、領域国の黙示の同意等、いずれの理由によっても裁判権否定を正当化することはできないと考えることができる。

15. 私見によれば、国家間の武力紛争の過程で行われた行為は上記とは全く別の種類の問題である。それらは主権国家の外交、安全、防衛政策の遂行に関する国際・国家間レベルの行為であり、学会文献(前記第8項参照)に立ち戻り、国際法によって評価されるべきである。これらの行為は、本来国内法により評価される行為ではないが、例えば個人が個別に責任を負う犯罪の規定や宣言など、国際法の規定をとり入れている限り、国内刑法にも違反する可能性があり、それについて彼らが免除を享受するとは思われない。

16. 国際法委員会の注釈は、第12条草案は「武力紛争に関わる状況には適用されない」と明確に述べている(国際法委員会年報1991 第12条注釈)。国連条約が武力紛争や軍隊の行為を原因とする請求には条約は適用されないと規定する欧州条約(1972欧州主権免除条約第31条)と同じように規定していればより明白であったであろうが、2004年10月25日に特別委員会議長が行った条約草案に関する委員会報告の中で委員会の立場を次のように明確に述べた。「提起された問題の一つは軍事活動が条約でカバーされるかということであった。一般的理解としてはカバーされないという見解が常に優勢であった」。ノルウェーとスウェーデンは条約の批准にあたり、類似の理解を陳述した。私の理解では、議長の声明が戦争犯罪の除外を意味していることは言うまでもない。

17. 多くの国の国内法で最初は外国に絶対免除を認め、後にこれを制限するようになった ことからの類推によっても、上記の除外は裏付けられる。国際法委員会は過去の事情について次のように述べた。

「多くの国の実行のなかに主権免除の原則が確立したのは19世紀の事である。英国と米国をはじめとする英米法圏では、外国は領域国の裁判権から免除されるという原則は、国際礼譲によるものとは全く別に、各国元首に対する伝統的な免除の影響を受けて広い範囲に及んでいた。すなわち、英国では主権免除の原則は『国王は自国の法廷において訴追されない』という格言で表現される英国の憲法的慣習の直接の結果であった。したがって国家元首を訴追することは憲法的に不可能であった。国王に対する免除は後に外国元首にも適用が拡大され、法の発展の次の段階では外国国家にも及んだ。」 (国際法委員会年報 1980)

しかし1932年までには、広範囲に調査し慎重に準備された、外国に対する裁判所の管轄に関する条約ハーバード草案の担当者らが下記のように述べることが可能になっていた。

「(絶対免除規則に対する)例外は近代生活が変化し発展したことによる必要性によって姿を現した。国内裁判所に私人が提起した訴訟に国家が従うことを定めた法律が次々と制定された。国王は悪をなしえずという英国の古い原則は法原則としての効力をほとんど失った。」 (1932 アメリカ国際法雑誌増刊26 p527‑528 ; この文献はフィリップ・ジェサップ教授を報告者とするグループによって作成された。)

したがって、この草案には主権免除に対する多くの例外が規定された。20年後、ハーシュ・ローターパクト教授は、最近の英米法圏における裁判手続からの国家の免除の制限に関する立法の変化に関連する国内法の類似性を強調した(「外国に対する主権免除問題」(1951), 英国国際法年報28 p220‑221, 233‑235)。これらの国内法の多くは、法の支配の原則、国家と国民の法の下の平等、国家と個人の訴訟当事者としての同等の地位などの目的によるものであった。この初期の見解で提起された区別を想起すると、この新しい立法は民事訴訟に関して国家を裁判権に従わせようという趣旨であったことが分かる。反対に、それらの立法は国家の防衛やさらに広い目的の国家の軍隊の活動を原因とする請求を許容するものではなかった。そのような問題は軍人年金など帰還兵の社会復帰のための施策のような国家レベルの一般政策によって扱われた(例えば、ピーター・W・ホッグ、P. J. モナハン著「国王の責任」第3版7(6)(b)参照) 。私人の行為との比較をあえて強調しているわけではないが、興味深いことに、国際法委員会の初代の特別報告者であるソンポン・スチャリクルは 1959年に次のように記している。

「主権免除の原則は19世紀のイタリア裁判所も一般的に適用していた。しかし、最も初期においては、イタリア裁判所は国家の二重の性格を根拠に免除を制限する見解を採用していた。これは主にイタリアでは元首自身が私人の資格で行った行為についてイタリア裁判所の裁判権に服していたことによる」(1959国際法における主権免除と貿易活動p11)。

18. 国際法のレベルでは、旧交戦国に対する戦争被害や損失についての請求は、本件の1947年及び1961年の協定に見られるような国家間交渉や協定によって処理される(判決22,24~25項参照)。そのような協定は、故意過失に起因するものであるか否かを問わず、損失に対する請求を私的請求によるのではなく、総額として、多くは互恵的基準により処理する。そのような国際実行は大規模な武力紛争による広範な破壊と荒廃という結果を考慮したものである。そのような破壊と旧交戦国の社会と経済の再建のための絶対的必要性という、それらの実行で考慮された観点から見ると、イタリアの下記のような主張は、少なくとも私の理解では全く現実的ではない。

「(被害者の国と違反に責任を負う国の双方)の国家は戦争被害について交渉し合意する場合に、(a)戦争犯罪の被害を受けた(全ての個人でなければ)全ての類型の被害者をカバーすること、(b) 象徴的なものにとどまらない十分な財政的手当、(c) 被害者に補償が行われる適切な機構、を保証しなければならない。したがって、相手方が一時金と交換に全ての請求を放棄することに同意したというだけでは十分ではない。その一時金が充分で適切であること、被害者にそれを分配するために被害者を特定する基準が確立されていることが必要である」(イタリア答弁書第5、26項)。

6年間の激しい戦争後のヨーロッパで、主張された要求(a)および(b)がどうして満足できたであろうか?実際にはいかなる補償も、しばしば国家により一般的な復興目的に使用され、それは理解可能なことである。そして(c)は法的にも現実的にも認められた義務とは言えない。

19. アメリカ合衆国が歴史上締結した多くの和解協定に主に論及したルイス・ヘンキン教授は次のように述べた。

「政府はそのような個人請求を政府自身のものとして処理し、国家的財産そして国際交渉における持ち駒や『切り札』として扱ってきた。和解協定は相手国に対する個人の債務をまとめ、または反映しつつ、元来政府間によって行われ、一つの類型の請求についての譲歩は、他の債務あるいは債務とは無関係のより大きな政治的考慮についての相手国の譲歩の代償となる。結果として、協定が別段の規定を設けている場合を 除き、国際的な和解協定は基礎となる個人債権を一般的に消滅させ、国内法に基づくあらゆる償還請求も終了させる。…

多くの場合、一括支払いの和解が民間人が他の国益の犠牲にされない最良の『取引』であるという保証はない。ほとんどの場合、私的当事者がその請求の完全な『価値』の回復を確信することはできなかった」(1996 外交問題と米国憲法 第2版 p 300)。)

最近、コロンビア特別区連邦控訴裁判所は、この一節の最初の部分を引用し、「より大きな政治的考慮」に関して1951年の日本との平和条約に関する米国の1952年の立場表明を引用した。

「明らかに、被害国とその国民の請求に相応する賠償の支払いを主張すると、日本経済を破壊し、現在所有している可能性のある信用を費消し、国民の自発性を破壊し、窮乏と混乱を醸成し、 その中で不満と共産主義の種子が繁栄するだろう。」 (Joo v.Japan (2005))

厳しい戦後の現実と旧敵国との新たな関係の樹立の必要性の認識をもとに、非常に長きにわたって確立されたこの慣行は、 本件手続の内容のような場合には、旧交戦国は同意なしに外国の裁判所の管轄に服さないという結論を強く支持している。

20. 最後に、本件の判決は、1943年から1945年にかけてイタリア市民に対して行ったきわめて重大な国際法違反に対するドイツの責任をいかなる意味でも否定するものではないことを強調しておきたい。ドイツは実際に、その代理人の言葉として、「恐ろしい戦時中の出来事についての完全な責任を受け容れ」た。しかし、その責任とそれに伴う義務は当裁判所における争点ではない。 争点は、それらの出来事を原因としてイタリアの裁判所にイタリア市民個人から提起された訴訟におけるドイツの主権免除の要求のみである。

(署名)ケニス・キース

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