8 第四共和国憲法又は「維新憲法」(1972)
1) 第四共和国憲法制定の経緯
1970年代になるとインフレの進行や劣悪な労働条件など、朴政権を支えた驚異的な経済成長のひずみが顕在化してきた。1971年4月の大統領選挙では朴正煕(パク・チョンヒ)大統領は莫大な資金をつぎ込み、全羅道に対する地域感情を煽動して野党の金大中(キム・デジュン)候補を抑えて当選したが、国会議員選挙では野党の新民党は89議席を獲得した。これは朴正煕大統領にとって、再度の憲法改正により4選を可能にする道が断たれたことを意味した。この年、大法院が初めて法律(国家賠償法)に違憲判断を下し、大学生たちは朴大統領が大統領選挙時に公約した軍事教練廃止を実行しなかったことに抗議して大規模なデモを行うなど体制の弛緩が目立ち始めた。これに対し朴正煕大統領は1971年12月北朝鮮の侵略が切迫しているとして国家非常事態宣言を発令する一方で北朝鮮政府と直接交渉を行い、1972年7月4日南北共同声明を発表した。多くの国民はこれを歓迎し南北統一の実現を期待したが、朴正煕大統領は国民の期待を逆手にとり、同年10月17日、南北の平和統一実現を口実に非常戒厳令を発布し、「10月維新宣言」を発表した。その内容は国会解散・政党及び政治活動中止等憲法一部条項効力停止、非常国務会議による憲法改正案の作成と国民投票の実施と言うものであった。これにしたがい10月27日には非常国務会議が改憲案を議決・公告し11月21日に国民投票が行われた。多くの国民は未だに南北統一実現の熱気の中にあり、改憲案は賛成率91.9%で可決された。この新憲法を「第四共和国憲法」又は「維新憲法」と呼んでいる。
第三共和国憲法は大統領による国会解散も大統領や国務会議による憲法改正の提案も認めておらず、第四共和国憲法成立の過程は憲法上の憲法改正手続とは無縁の朴正煕大統領による上からのクーデターであった。
2)第四共和国憲法の特徴
① 前文
「祖国の平和統一の歴史的使命に立脚し自由民主的基本秩序を更に強固にする……」との文言を挿入した。第三共和国憲法と同様に従前の憲法の改正規定に従った改正ではなかったが、「1948年7月12日に制定され1962年12月26日に改正された憲法をここに国民投票により改正する」として制憲憲法及び第三共和国憲法との連続性を強調した。
② 総綱
制憲憲法以来維持されてきた「全ての権力は国民から生ずる」という国民主権の原理的宣言が削除され「国民はその代表者や国民投票により主権を行使する」との文言に置き換えられた。
③ 統治機構
統一主体国民会議という新たな憲法上の機関を創設した(第3章)。この機関は大統領を議長として、国民の直接選挙による2000人以上5000人以下の代議員により構成され(36条)、大統領を「討論なく無記名投票で」選挙し(39条1項)、定数の3分の1の国会議員を選挙する。国会議員選挙にあたっては大統領が候補者を一括推薦し、統一主体国民会議は候補者全体に対する賛反の投票を行い、賛成が得られない場合には大統領は新たな候補者名簿を作成して選挙を要求する(40条)。
統一主体国民会議の代議員の被選挙権については法律で3年以上いずれの政党にも所属しないものと定められ、野党の党員や元党員は立候補することもできなかった。このような統一主体国民会議は事実上大統領の翼賛機関に過ぎなかった。しかも大統領の重任制限も撤廃し、朴大統領は国民による選挙の心配をする必要もなく永久執権が可能となった。その上、国会議員の3分の1は大統領の推薦名簿によって選出されるから、大統領与党が国会で少数になる可能性はほとんどなくなった。更に、大統領は国会解散権をもち(59条1項)、それに対して国会には大統領不信任権がなく、国会も大統領の翼賛機関に転落した。
大統領には国家安保や公共の安寧秩序が重大な脅威を受ける「憂慮がある」ときにまで緊急措置権が認められ、緊急措置権を行使すれば国民の憲法上の自由と権利を一時的に停止すること、政府や裁判所の権限を制限することも可能となった。緊急措置は司法審査の対象とならず、国会に「通告」すれば足り、国会は在籍議員の過半数で緊急措置の解除を「建議」することができるのみであり、大統領は「特別な事由」があればこれに応じないこともできる(53条)。すなわち大統領の緊急措置権は司法権・立法権による制約がほとんど不可能な大統領の独裁権限を合法化するものであった。
④ 司法
裁判官推薦会議は廃止され、大法院長以外の裁判官は大法院長の提請により大統領が任命することとされ(103条2項)、裁判所の構成についても大統領の支配下に置かれた。この制度により国家賠償法違憲決定に関与した大法官は追放されることになった。違憲立法審査権は大法院から憲法委員会に移された。
⑤ 国民の権利義務
居住移転(12条)・職業選択(12条)・住居の自由(14条)、通信の秘密(15条)、言論出版、集会結社(18条)、労働基本権(29条)について個別の法律の留保が規定された。一般的な人権制約根拠に「国家安全保障のために必要な場合」が追加され、「制限する場合にも自由と権利の本質的な内容を侵害することができない」との文言が削除された(32条)。
軍人・軍属等の戦闘・訓練等による被害については法定の補償に限定するとの規定を新設し(26条2項)、大法院が違憲とした国家賠償法について違憲論の余地をなくした。
このように、第四共和国憲法は権力分立の原則に反する統治機構、国民主権・人権保障の原理の否定、大法院の違憲判断への報復などを内容とするものであって、とうてい近代的憲法といえるものではなく、実態は立憲主義の破壊のための法に過ぎなかった。