太平洋戦争の戦局が悪化すると、多くの男子労働者が軍隊に動員され、軍需産業の労働力が不足するようになった。日本政府はこの不足を埋めるため朝鮮の少女を勤労挺身隊として動員した。小学校6年生又は卒業直後であった彼女たちは小学校の教師らから女学校に行けるなどと勧誘されて志願し、親元を離れ、空襲の危険の最も高い軍需工場でこれまで成年の男子労働者が担当していた労働に従事させられた。
原告らのうち2名は国民学校(小学校)6年のときに「不二越に行けば金も稼げる、女学校にも行ける」などと言われて勤労挺身隊に応募し、他の一名は19歳のときに徴用令書により富山の不二越に連行された。不二越では行動の自由が制限され、危険な重労働に従事させられ、食物は不足し、女学校に行くどころか、給料も支給されなかった。なお、本件は最高裁において原告らと不二越の間に和解が成立した。
一審判決(富山地裁1996年7月24日判決)は被害事実を認定した。
原告らのうち27名は13~14歳のときに、「不二越に行けば金も稼げる、女学校にも行ける」などと言われて勤労挺身隊に応募し、他の一名は徴用により富山の不二越に連行された労働者である。不二越では行動の自由が制限され、危険な重労働に従事させられ、食物は不足し、女学校に行くどころか、給料も支給されなかった。
一審判決(富山地裁2007年9月19日判決)は被害事実をきわめて詳細に認定した。
原告らは14歳のときに原告X1は役人から令状のようなものを見せられ半ば強制的に、原告X2は日本の工場で働けば学校にも通えるし土地100坪買える金が稼げるなどと言われて勤労挺身隊に応募し、沼津の東京麻糸紡績(現帝人)で働かされた。実際には行動の自由もなく飢えと空襲の恐怖に苦しみながら重労働に従事させられ、賃金も支給されなかった。
一審判決(静岡地裁2000年1月27日判決)は事実認定を行わなかった。左の文書は一審判決中の原告の主張を整理した部分である。
名古屋の三菱重工道徳工場には約300名の朝鮮人女子勤労挺身隊が動員されて航空機製造に従事し、東南海地震により6名が死亡した。原告らはその生存者6名、遺族1名である。原告らは12~13才の時、小学校の教師、校長、憲兵などから日本に行けば女学校に進学して金も稼げるなどと言われ、家族の反対を押し切って応募したが、実際には女学校どころか給料も受け取れず、自由を制限され、空腹に苦しみながら重労働に従事し、地震と空襲の被害を受け、生きて帰った者も帰国後は勤労挺身隊と日本軍「慰安婦」を混同する世間の誤解に苦しんだ。
一審判決(名古屋地裁2005年2月24日判決)はかなり詳細な事実認定を行った。
日本は、戦争の長期化に伴い軍需産業等での労働力の確保を図るため、1939年より募集方式、昭和1942年より官斡旋方式、1944年には徴用による朝鮮人労働者の動員を行うようになった。「徴用」が強制的な動員であるのはもちろんのこと、「募集」「斡旋」も実際には朝鮮総督府が主体となり、各道・郡・面 に対して供出人数を指定し、郡・面の職員や警察官により朝鮮人青壮年をかき集めたものであって、徴用と同じく強制動員であった。 このようにして労働者として日本本土に強制動員された朝鮮人は110万人に及び、炭坑や軍事施設の建設現場等で重労働を強いられ、約6万人の死亡者を含め、30数万人が死傷したとみられている。
原告は1942年に官斡旋方式により連行され、川崎製鉄所で労働させられた。翌年、同所では酷使と差別待遇に怒った朝鮮人労働者がストライキを行ったが、原告はその中心人物とみなされ、木刀で殴打されるなどして後遺障害を負った。本件は二審係属中に和解が成立した。
一審判決(東京地裁1997年5月26日判決)は被害事実を認定した。
原告らは韓国江原道の太平洋戦争被害者遺族会の会員24名であり、そのうち12名が強制連行・強制労働の被害者またはその遺族である。
一審判決(東京地裁1996年11月22日判決)は事実認定を行わず、原告の主張を整理して別紙として添付した。
原告らは主に京畿道やソウルで徴用令書を受け広島の三菱重工に連行された。有刺鉄線で囲まれた寮に入れられ、軍隊式に引率されて工場に通い、食事は日本人工員と差別され、腐敗した飯を食べさせられて騒動になったこともある。給与の半分は家族に送ると言われていたが、実際には送られていなかった。原爆を被爆すると三菱は原告らを放置し、原告らは闇船に乗るなどして自力で帰郷し、その後被爆の後遺症に悩まされている者が多い。
一審判決は被害事実を認定したが、「連行」「食糧」などのテーマ別に記載されているので、ここでは被害者ごとに記載されている判決別紙「原告の主張」を紹介する。
本件の原告らは軍人・軍属・徴用工などの強制動員被害者とその遺族約1000人であり、太平洋戦争被害者光州遺族会の会員である。
一審判決は被害事実をきわめて簡潔に認定したが、ここでは元徴用工原告の本人尋問調書を紹介する。
1942年に日本政府は中国人労務者を日本に連行する旨の閣議決定を行い、約38000人の中国人を強制連行し、その17%が死亡した。戦後日本政府と関連企業は強制労働の事実を否定していたが、1993年のNHKの報道により外務省報告書の存在が明らかになり、強制連行・強制労働の実態が明るみに出た。
日中戦争の末期、日本は国民党軍や八路軍又はその協力者であった捕虜986名を秋田県の鹿島組(現鹿島建設)花岡鉱山に連行して酷使した。飢えと酷使、虐殺により150名が死亡したが、一人の中国人が全員の前で撲殺されたのを契機に蜂起した。激しい戦闘の末に蜂起は鎮圧され、生き残った者は警察で拷問を受けたり、広場に置かれて警察・群衆により虐殺されたりした。原告のうち2名は虐殺された者の遺族、7名は生存者、1名は帰還後死亡した者の遺族である。本件は二審(東京高裁)で和解が成立した。
一審判決(東京地裁1997年12月10日判決)は事実認定を行わず、原告の主張を別紙として添付した。
原告は中国で農業に従事していたが、傀儡軍に捕えられて日本軍に引渡され、北海道沼田町の昭和鉱業所に強制連行されて炭坑で酷使された。1945年に脱走し、山中で雑草を食べ、雪の洞穴で過ごすなどして日本の敗戦も知らず、1958年に発見されるまで12年以上逃亡生活を続けた。
一審判決(東京地裁2001年7月12日判決)は被害事実を認定した。
原告らは広島県の安野水力発電所建設現場に強制連行された中国人の生存者3名、死亡者遺族2名である。いずれも山東省出身で、労務中に拉致され、又は国民党軍に属していたところ捕虜となり、収容所を経て日本に連行され酷使された。5人のうち2人は大隊長殺害の疑いで逮捕され、広島に連行された際に原爆で被爆し、1人は爆死した。また別の1人はトロッコが転覆する労働災害により失明した。一審判決は詳細な事実認定を行った。なお、本件の最高裁判決は「上告人(西松建設)を含む関係者において、本件被害者らの被害の救済に向けた努力をすることが期待される」と付言し、これを受けて和解が成立した。
一審判決(広島地裁2002年7月9日判決)は被害事実を詳細に認定した。
戦争末期に太平洋側の港湾は爆撃で使用不能となったため、新潟港は石炭の輸送に重要な役割を果たしていた。ここに中国から約900名の労働者が強制連行され、港湾荷役作業に従事させられ、厳しい気象条件の中で不十分な栄養状態の下で作業させられ、短期間のうちに159名が死亡した。原告らは中国で日本軍に捕えられて新潟に送られたこれらの被害者のうち生存者9名と遺族2名である。
一審判決(新潟地裁2004年 3月26日判決)は被害事実を認定した。
原告らは中国人強制連行・強制労働被害者42名である。原告らは共産党・八路軍の関係者又は関係者と疑われた結果、日本軍または汪兆銘政府の軍により捕えられ、拷問を受けた末に日本に送られ、被告各社が経営する鉱山などで酷使された。
一審判決(東京地裁2003年3月11日判決)は事実認定を行わず、原告の主張を別冊として添付した。
原告らは日本兵により拉致されたり、中国内でよい仕事があると欺罔されるなどして日本に連行され、三井鉱山三池鉱業所及び田川鉱業所で銃を持った警官の警備する宿舎に起居し、空腹に苦しみながら最長2年9月の間強制労働させられた。
一審判決(福岡地裁2000年5月10日判決)は被害事実を認定した。
原告らの一部は八路軍又は国民党軍に所属し日本軍の捕虜となったが、大部分の原告は日常生活の中で突然日本軍に捕らえられ、収容所に収容された後に日本に連行され、被告各社の北海道内の炭鉱、砂利採石場、製鉄所等で酷使された。
一審判決(札幌地裁2004年3月23日判決)は左に紹介する通り原告の主張を整理した上で、「少なくとも原告らが暴力的にあるいは威嚇等によりその意思を制圧され、又は欺罔されて、戦争が終了するまでの間、人格の尊厳と健康を保持することが困難となるような劣悪な環境の下で我が国に連行され、その意思に反して重労働を強制されたという事実の概要についてはこれを優に認めることができる」とした。
原告らは市場や役所で日本軍や傀儡軍に捕えられ収容所を経て京都府の大江山鉱山に強制連行され、ニッケル鉱山で自由を奪われ空腹に苦しみながら酷使された。なお、本件原告と被告日本冶金の間では一審で和解が成立した。
一審判決(京都地裁2003年1月15日判決)は被害事実を認定した。
三菱鉱業端島炭鉱(「軍艦島」)には200人余の中国人が強制連行され、強制労働に従事した。この訴訟は2009年に最高裁で原告敗訴が確定したが、当事者・関係者の多大な努力の結果、2016年に被害者と三菱マテリアルとの間で訴外の和解が成立した。
ところで、端島炭鉱には多くの朝鮮人も強制動員されたが、2015年に「明治日本の産業革命遺産」としてユネスコ世界遺産に登録される際、韓国政府の異議に対し、日本政府は「その意に反して連れてこられ、厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者がいた」ことを認め、徴用政策の実施について理解できるような措置を講ずると約束した。しかし、その後この約束は実行されず、逆に2020年に東京に開館した「産業遺産情報センター」には差別や虐待を否定する展示がなされた。
一審判決(長崎地裁2007年3月27日判決)は被害事実を認定し、「人倫に反する極めて違法性の強い事案である」と述べた。ここでは「産業遺産情報センター」の展示とは全く異なる端島炭鉱の悲惨な実態を生々しく陳述した原告本人調書を紹介する。