戦争・植民地被害者の被害事実
ー戦後補償裁判の記録から

性暴力被害

日本軍による性暴力は、中国・フィリピン・インドネシアなどの戦地・占領地においては主にむき出しの暴力による拉致・監禁・継続的強姦として、朝鮮・台湾の旧植民地においては主に欺罔による連行、組織的・制度的な「慰安婦」制度の構築として行われた。いずれの場合にも離脱の自由がないまま不特定多数の軍人との性行為を強制され、性奴隷として人格を踏みにじられた。


≫中国人「慰安婦」一次訴訟一審判決別紙

原告らは中国山西省に居住の被害当時15歳〜21歳であった4人の女性である。彼女たちは日常生活の場から日本軍に拉致されたり、親族が八路軍であったなどの理由により連行されるなどして軍の施設に監禁され長期間にわたって継続的な性暴力を受けた。

一審判決(東京地裁2001年5月30日判決)は事実認定をしなかったが、判決別紙「事実関係に関する原告らの主張」において被害事実の主張を整理している。




≫中国人「慰安婦」二次訴訟一審判決

原告らは被害当時15歳であった女性と、被害当時13歳であった女性の遺族である。ともに中国山西省で日本軍等によって拉致・監禁・継続的強姦等の性暴力被害を受けた。

一審判決(東京地裁2002年3月29日判決)は被害事実を認定した。







≫山西省性暴力被害者損害賠償請求訴訟一審判決別紙

原告らは中国山西省孟県で日本軍の性暴力を受けた被害者8名と被害者遺族2名である。被害者らは数え年15~25歳であった1941〜43年頃、日本兵に自宅を襲撃されて強姦されたり、拉致・監禁されて継続的に強姦された。中には繰り返し逃亡し、3回にわたって監禁・継続的強姦をされた者、数か月にわたり特定の日本兵から関係を強要され妊娠・出産したため戦後対日協力者として投獄され、文化大革命時に糾弾を受けて自殺した被害者もいる。

一審判決(東京地裁2003年4月24日判決)は詳細な事実認定はしなかったが、判決別紙として「被害状況一覧」を添付し、判決理由中で「(原告の主張する被害事実の)概要においては、これを明らかに認め得る」とした上で、日本軍の加害行為を「国際法の次元においておよそ是認される余地のない、著しく愚劣な蛮行」と評価し、「いわゆる戦後補償問題が、司法的な解決とは別に、被害者らに直接、間接に何らかの慰謝をもたらす方向で解決されることが望まれる」と付言した。

≫海南島戦時性暴力被害者名誉回復等請求訴訟 訴状

日本軍は1939年に中国の海南島を占領し、慰安所を設置した。原告らはいずれも海南島に居住し、少数民族に属する女性である。14~18歳のときに自宅や山中で日本兵に強姦され、慰安所に強制連行されて多数の日本兵との性行為を強要された。慰安所での監禁期間は永い者で3年に及んだ。被害者の中には他の被害者が日本軍に虐殺される現場を目撃した者もいる。

一審判決(東京地裁2006年8月30日判決)は証拠により事実を認定したが、ここではより詳細な事実が記載されている訴状の該当部分を紹介する。



≫フィリピン人「慰安婦」訴訟一審判決別紙

原告らは市場等の日常的な生活の場で突然日本軍に捕えられ、監禁されて継続的な性暴力を受けた。被害当時の年齢は15歳以下が15人、16〜20才が18人、20代12人、30代1人であり、監禁期間は短い者で1月、永い者は2年以上に及んだ。連行と強姦はむき出しの暴力を伴っており、娘の連行に抵抗する父親が日本刀で首を切り落とされたり銃剣で刺殺されるなど、連行の際に家族を目の前で殺害された者が何人もいる。原告らは戦後も被害体験による精神的、肉体的な後遺症に苦しみ続けた。

一審判決(東京地裁1998年10月9日判決)は事実認定を行わず、原告らの主張する事実を「被害事実等目録」として添付した。



≫オランダ人元捕虜・民間抑留者損害賠償請求事件一審判決

日本軍は1942年3月までにオランダ領東インド(現インドネシア)全域を占領し、捕虜収容所に99000人の捕虜、抑留所に約80000人の民間人を収容した。原告のうち一人は高校を卒業したばかりの年で収容され、強制売春をさせられた。

一審判決(東京地裁1998年11月30日判決)は原告らが主張する各被害事実を証拠等により認めることができるとして事実を認定した。左の書面はこの判決中、性暴力被害を受けた原告に関する被害事実の部分である。




≫台湾人「慰安婦」訴訟一審判決 別紙

原告らは17〜20歳であった1938〜43年頃、役所からの招集通知、雑用係・看護婦として働くなどの欺罔、雇主である酒場の主人により売られるなどして、中国、ビルマ、インドネシアなどの日本軍「慰安所」に連行され、日本の敗戦まで自由を奪われ多数の日本兵の相手をさせられる性奴隷としての生活を強いられた。

一審判決(東京地裁2002年10月15日判決)は判決別紙として原告らの主張する「原告らの被害事実」を添付したが、事実認定は行わなかった。




≫関釜裁判一審判決

原告のうち3人の元日本軍「慰安婦」は欺罔や甘言により、台湾、上海などに送られ、強姦された後に慰安所で毎日多数の軍人の相手をさせられた。原告の一人は軍人から腹を蹴破られ、日本刀で切り付けられた。

一審判決(山口地裁下関支部1998年4月27日判決)は原告らの陳述の内容が断片的であり、極く身近な事柄に限られているが、「自らが慰安婦であった屈辱の過去を長く隠し続け、本訴に至って初めてこれを明らかにした事実とその重みに鑑みれば、本訴における同原告らの陳述や供述は、むしろ、同原告らの打ち消し難い原体験に属するものとして、その信用性は高いと評価される」として原告らの主張する事実を認定した。


≫在日韓国人元「慰安婦」謝罪・補償請求事件一審判決

原告の宋神道(ソン・ジンド)さんは15歳のとき親の決めた結婚を嫌って逃げ、子守などをして生活していたが、戦地にいけば結婚等しなくとも生きていけるなどとの甘言により性に関する仕事とは知らぬままに武昌の慰安所に連行された。何度も逃亡をはかったがその度に連れ戻されて暴行を受け、結局敗戦まで数か所の慰安所を転々とさせられた。多いときは一日数十人の日本兵の相手をさせられ、妊娠・出産した子は養子に出さざるを得なかった。軍人に切り付けられた傷跡が今も残っている。。

一審判決(東京地裁1999年10月1日判決)はこれらの事実を認定した。



≫アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟訴状

原告らの中には元日本軍「慰安婦」として初めて実名で名乗り出た金学順(キム・ハクスン)さんをはじめとする8人の元に日本軍「慰安婦」が含まれている。

一審判決(東京地裁2001年3月26日判決)は同原告らが日本軍「慰安婦」であった事実を認定しているが、きわめて簡潔な認定であるので、ここでは訴状の該当部分を紹介する。





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