1932年、南満州鉄道株式会社が管理する撫順炭坑が遼寧民衆自衛軍に襲撃されて被害を受けた。日本側守備隊は平頂山村の住民が自衛軍に通じていたとして、住民ほぼ全員を集めて銃撃し、生き残った者を刺殺するなどして、日本軍関係者によれば700人余、中国側によれば3000人以上を虐殺した。原告らは30~40人と言われる生存者のうち3人である。死んだふりをするなどして九死に一生を得たが、各々すべての家族を失った。
一審判決(東京地裁2002年 6月28日判決)は被害事実を認定した。
原告Aは南京虐殺事件の生存者である。強姦しようとする日本兵に抵抗したところ銃剣で37か所刺され、妊娠中の胎児を失い、顔面に多数の傷が残った。原告CDEは731部隊の生体実験犠牲者の遺族である。夫を失った原告Cは自らも憲兵から裸にされて鞭で打たれる拷問を受けた。原告Fは1943年に日本軍が福建省永安市に無差別爆撃を行った際に母親と共に被弾して各々右腕を失った。
一審判決(東京地裁1995年8月7日判決)は南京虐殺の事実を含めてかなり詳細に事実認定をしているが、判決原本を未入手なので、ここでは訴状の事実関係に関する部分を紹介する。なお、判決文は判例タイムズ1028号92頁に掲載されている。
原告らは1970年代から90年代にかけて、道路工事等の作業中に日本軍の遺棄毒ガスに被曝したり、砲弾の爆発により死亡した者の遺族と重篤な後遺障害を負った生存者である。
一審判決(東京地裁2003年9月29日判決)は被害事実を認定した。
1919年の三一運動の際、日本軍が堤岩里(現在の韓国京畿道華城市)の男子を教会に集め、監禁して放火・銃撃するなどして23人を虐殺し、近隣の古州里でも2家族6名を銃殺した。原告らはその犠牲者の遺族(妻子)である。
ここに紹介するのは訴状の事実関係の部分である。
敗戦直後の樺太上敷香(現在のサハリン、レオニドヴォ)において、16人の朝鮮人が警察署に連行され、署内で射殺された。原告らは犠牲者の遺族(姉と子)である。
一二審判決は事実認定を行わず、簡潔に原告の主張を要約した。ここに紹介するのは一審判決が要約し、それを二審判決(東京高裁1996年8月7日判決)が一部訂正したものである。